文化 歴史のしずく

■甲冑
市指定文化財の牧士川上家資料には富塚の川上家に伝わった様々な文化財がありますが、その一つに甲冑があります。甲冑とは「よろい」(甲)と「かぶと」(冑)を指します。
日本での甲冑の歴史は、文献では古事記に応神天皇の子の大山守命が、常陸国風土記では普都大神(香取神宮の祭神)が着甲した記述がありますが、発掘調査の成果などから見ると、甲が登場するのは弥生時代のことで、古墳時代に朝鮮半島の影響を受けて鉄製の甲冑が広がり、平安時代の末までには騎乗での弓戦を意識した大鎧など日本独自の甲冑が成立し、戦乱の世となった室町時代末以降は当世具足と呼ばれる甲冑が使用されるようになりました。
川上家の甲冑は幕末のものと考えられます。当時は甲冑の入手が難しく、急遽そろえるため、別々の甲冑を組み合わせます。縅(おどし)から見て、胴・草摺(くさずり)・佩楯(はいだて)・脛当(すねあて)が一組、頬当(ほおあて)・兜が一組で、袖・籠手(こて)・兜の前立は更に別のものを組み合わせます。胴下部の揺糸は切断され、草摺は革帯に縫い付けるベルト式に改められている点も時代を反映します。専門家によると甲冑は1・2回程しか使用されておらず、実戦では使用していないそうです。甲冑を納めていた鎧櫃(よろいびつ)(写真では台に使用)も幕末のもので、底部に冑、その上に甲を収める珍しい形式です。
幕末期に牧士を務めた川上次郎右衛門知周は元治元年(1864)の水戸天狗党の乱の際に兵粮繰出方(ひょうろうくりだしかた)として幕府側で従軍しており、その際に使用したものかもしれません。その後、牧士は騎兵奉行の支配下に置かれ、幕府陸軍に属することとなりますが、幕府陸軍はフランス式の軍装ですので、甲冑は使用しなかったと思われます。
本甲冑は修理もほとんどされておらず、幕末期の甲冑の姿を今に伝える点で重要なものです。現在、白井市郷土資料館で常設展示されています。

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