- 発行日 :
- 自治体名 : 富山県氷見市
- 広報紙名 : 広報ひみ 令和7年7月号
■牛のいる風景
〜氷見の牛耕と砕土機〜
今回は、令和6年能登半島地震に伴う文化財レスキューで寄贈された写真を紹介します。この写真は太平洋戦争真っ只中の昭和18年頃、地域の女性たちを対象とした牛耕講習会の様子を写したものです。
牛が曳(ひ)いているのが砕土機(さいどき)です。戦時中、馬鍬(まぐわ)に代わり、田植え前に土を細かく砕いてならす代掻き作業に使われるようになった農具です。こうした畜力農具には馬鍬や砕土機のほか、土の荒起こしや練り回しを行う犂(すき)があります。畜力としては、東日本・北陸・九州などで馬、西日本で牛が用いられており、氷見でも元々は馬にそれらの農具を曳かせていました。
ところが昭和12年に日中戦争が始まると農耕馬は軍馬として徴用されたため、氷見でも牛を農耕に用いるようになります。牛は馬に比べると力がなく、働きは悪かったそうですが、馬より安価で餌も少なくてすみ、さらに肉牛として売ることもできたため普及が進みました。戦後は再び農耕馬が使われるようになりますが、地域によっては引き続き牛が畜力農耕の主力を担い、牛がいる風景というのは農村に欠かせないものとなりました。
なお、写真の阿尾地区では、昭和16年より農家の副業として和牛肥育が盛んに行われたそうです。これは肉牛としての販売を目的としたものでしたが、牛耕講習会が開催されるなど、畜力としての利用も兼ねていました。
昭和30年代以降は耕耘機の導入で畜力は不要となり、その後は肉用牛としての肥育が中心となります。そしてそれが現在の「氷見牛」につながっていくのです。
(博物館主査 廣瀬直樹)
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