- 発行日 :
- 自治体名 : 福井県坂井市
- 広報紙名 : 広報さかい 2025年6月号
■悲しい恋の道とゆかりの地
坂井市役所から南東に向かって、かつての北陸道をしばらく行ったところに、地蔵堂と供養塔があります。ここは江戸時代に起きた、ある男女の悲劇的な事件に関係する場所です。
文化年間(1804〜1818)、加賀藩士の家に生まれた安達良作(あだちりょうさく)と、町人秋本屋の娘「はや」は相思相愛(そうしそうあい)の仲でした。しかし親に結婚を反対され、文化5年(1808)、ついに2人は金沢を出て一緒に逃げ出します。北陸道を南に向かい越前国に入り、現在の坂井市域にさしかかった頃、後を追って来たはやの母親「そよ」が2人に追いつき、はやを連れ戻そうとしました。良作は、そよを説得しますが、聞き入れられず、やむなく良作はそよを殺して、はやも手にかけて自害しました。5月6日のことです。また当時、はやは16歳でした。なお良作から、生きて遺言状を届けるよう託された下男(げなん)(使用人)の松原八右衛門(はちえもん)も、良作を追って自ら命を絶ったのです。
四人の亡骸(なきがら)が見つかったのは、宮領村、長畑村、上新庄村の村境付近でした。良作と八右衛門の亡骸は金沢に運ばれ、はやとそよについては、演仙寺(えんせんじ)により葬儀が行われました。
文化13年(1816)に加賀藩の前田土佐守(とさのかみ)家の家臣が金沢と京都を往復した道中記録には、地元の人から聞いた事件の経緯と、供養のため石地蔵が建立されたことなどが書かれています。さらにこの事件は、後に郷土芸能の越前万歳(まんざい)において「お早良作駈落(かけおち)」という演目として取り上げられ、北陸街道沿いの地名や事件の顛末が謡われました。
天保12年(1841)に、事件現場付近の北陸道沿いに建てられた念仏供養塔(長畑)と、道を挟んで文久元年(1861)に建てられた地蔵堂(上新庄)が、今でも残っています。北陸道は、この世で結ばれなかった二人の、恋の逃避行の道でもあったのです。
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