- 発行日 :
- 自治体名 : 福井県美浜町
- 広報紙名 : 広報みはま 令和7年6月号 No.653
■~米と救荒食物~
『わかさ美浜町誌』をご覧になったことはあるでしょうか。
同町誌は平成9年度(1997)から準備事業が始められ、平成22年度までに13冊を刊行しています。
平成10年代、町誌の聞き取り調査では戦前のお話を聞くこともまだ容易で、中には明治生まれの方々もいらっしゃいました。
今となっては、さまざまなものが機械化される前の様子を聞くことができた貴重な機会でした。
今回は『美浜の文化第1巻暮らす・生きる』『同第2巻祈る・祀る』の記述から、食に関することをご紹介します。
昨今、米の価格高騰が叫ばれていますが、現在のように多種多様な食品が手に入らなかった頃、米は最大のエネルギー源でした。明治生まれの女性のお話によると、1人1日5合の米を食べていたそうです。現代の家庭の炊飯器では1人分くらいの量しか炊けませんし、今の米の価格が5キロ4千円とすると、4人家族で1か月の米代が7万円を超えてきます。
ただ、やはり農業中心の時代でも白米は贅沢とされ、日常は麦飯を食べていました。他にも大根や芋、とうもろこし、漁村ではワカメ等も混ぜて炊くことがあったそうです。変わったところでは、「ヨボ(リョウブ)」の木の芽を入れることもありました。
弥美神社の祭神は新庄の山中のヨボの木に降臨したとの伝説があり、弥美神社や織田神社の例大祭等では御幣(ごへい)にこの木が使われています。
また町内の旧家の塀を壊した際にヨボの実が大量に塗り込められているのが見つかり、非常食としての意味があったのではないかとも言われています。
町内の民俗学者、金田久璋(ひさあき)氏によれば、弥美神社の神饌(しんせん)には「野老(ところ)」という山芋に似た植物も供えられますが、これも普段は食しない救荒食物(きゅうこうしょくもつ)(飢饉(ききん)等の際の非常食糧)のひとつです。
神饌には、救荒食物を珍重し、後世に伝える意味も込められていたのではないでしょうか。
伝統的な神饌や食事を作る機会は、町誌の編纂当時よりも更に減少しています。
美浜の先人たちがどのように暮らし、何を伝えてきたのかを、これからの時代にもつなぎ、生かしていくために、町誌や収集された資料を活用していきたいと思います。
(美浜町歴史文化館)