文化 豊臣兄弟とも深い関わり 藤堂高吉と名張(1)
- 1/26
- 次の記事
- 発行日 :
- 自治体名 : 三重県名張市
- 広報紙名 : 広報なばり 令和8年1月10日号
名張藤堂家の祖・藤堂高吉は、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長の養子となり、豊臣兄弟と深く関わった人物です。さらに、伊勢・伊賀国(現三重県)を治めた藤堂高虎もまた、高吉を養子として迎えました。そんな高吉は、政治的な対立や時代の変化の中で不遇な立場に置かれ、「悲運の武将」とも言われます。
一方で、時代の荒波を乗り越えながら、名張を城下町・宿場町として発展させた人物でもあります。高吉が生きた時代に注目が集まる今こそ、地域の歴史に息づく「物語」に目を向けてみませんか。
藤堂高吉の初陣は朝鮮の役。2度目の朝鮮出兵の際は、豊臣秀吉から心身への健康の配慮や激励の言葉が記された朱印状が届いた。その後も、徳川家康に従って上杉氏討伐の軍に加わり、続いて関ケ原の戦いに転戦したり、大阪冬・夏の陣で武功を立てたりと、藤堂高虎と共に奮戦。果敢に戦国の世をくぐり抜けた。
■豊臣秀長や藤堂高虎の養子に―戦国武将の思惑に翻弄(ほんろう)された前半生
◆織田信長の重臣、丹羽長秀の三男として誕生
藤堂高吉は、1579年、織田信長の重臣、丹羽長秀の三男として近江(現滋賀県)の佐和山城に生まれ、幼名を仙丸と称しました。
↓
◆4歳で羽柴秀長の養子に
1582年、本能寺の変で信長が亡くなり、羽柴(豊臣)秀吉は丹羽長秀と合流し、明智光秀を討ち滅ぼします。同年、秀吉の望みにより、仙丸(高吉)は、弟・秀長の養子となります。これは、秀吉が、同じ織田家臣団でライバルであった柴田勝家を討ち滅ぼすために、丹羽長秀と縁を結ぶためであったといわれます。
↓
◆10歳で藤堂高虎の養子に
天下を手中にした秀吉は、姉の子(おい)を秀長の跡取りと決めました。秀長は、仙丸(高吉)の才能を愛し、手放そうとしなかったそうですが、秀吉の厳命で離縁。そこへ現れたのが藤堂高虎です。
高虎は、当時秀長の家臣で33歳。1588年、秀吉にお願いして仙丸を養子に(この頃、仙丸は高吉と名を改めます)。この縁組も、高虎が秀吉・秀長に取り入るための策謀だったともいわれます。
↓
◆22歳で関ケ原の戦いに従軍。高虎に実子が生まれる
14歳の頃、高虎に従い朝鮮の役で初陣。秀吉の死後、高虎は徳川家康に味方し、1600年、関ヶ原の戦いでは、高吉と戦いに加わり戦果をあげます。軍功により、高虎は、今治城主(愛媛県今治市)となり、高吉も城下に屋敷を構えました。こうした中、高虎に実子・高次が生まれます(1602年)。
↓
◆高虎が今治から津へ。高吉、30歳で今治城主に
1608年、高虎は、伊勢・伊賀国へ国替えとなり津城に移ります。高吉は、徳川家康の命により今治に残り、名張に来るまでの27年間を今治城の城主として過ごすことに。この間、大阪冬の陣と夏の陣には、高吉は高虎軍に加わり軍功をあげています。
しかし、高吉の領した2万石は、高虎が支配するものとして変わらず、諸国の大名(1万石以上の領主が大名とされる)が江戸に出向く「参勤交代」が始まっても、高虎は高吉には認めませんでした。そして、1630年に高虎が75歳で生涯を閉じます。この時、高吉は52歳、高次30歳でした。
▽丹羽長秀
高吉の実父、丹羽長秀。信長家臣団の一人で、信長の死後、秀吉を支えるように。
▽豊臣秀吉
柴田勝家に対抗するため、丹羽長秀と仲良くなりたい秀吉は、長秀の子・仙丸(高吉)を弟・秀長の養子にと望んだ。
▽豊臣秀長(大河ドラマの主人公)
秀吉の実の弟で、天下統一に大きく貢献した豊臣秀長。高吉が高虎の養子となった際には、養育費として高吉に1万石を贈った。
▽藤堂高虎
秀長の死後、秀吉直属の大名となった藤堂高虎。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いで奮戦。立身出世を果たす。
▽徳川家康
松山藩と藤堂藩で争いがあり、幕府が事情聴取することに。高吉が出頭し、理路整然とした説明で松山藩を打ち負かしましたが、高虎は密かに高吉を謹慎処分に。3年後、家康の耳に入ると「罪もないのに許せ」との声がかかり、高吉に1万石が加増されたという逸話が残る。
◎出典:「名張市史」(本記事の年齢は数え年で表記)
