文化 豊臣兄弟とも深い関わり藤堂高吉と名張(2)

■時代の荒波を乗り越えて―名張のまちの礎を築いた高吉

◆58歳で名張へ。古城跡に御殿を構える
藤堂高虎の死後、高吉は、幕府から伊予国(現愛媛県)と伊勢国の2万石を替地するよう指示を受けました。すると、高虎の実子で後継ぎとなっていた高次から、伊勢2万石のうち5千石を伊賀国の名張周辺と替地するよう勧められ、1636年正月、高吉は名張に移り住みました。このとき、高吉は58歳でした。
高吉は、古城跡に御殿を構えるとともに、家来団を周辺に住まわせ、小規模ながら城下町としての体制を整備。1670年、92歳の生涯を名張で終えました。今も残るゆかりの地が、高吉を偲ばせます。

▽ゆかりの地 寿栄(ひさか)神社(太鼓門)
高吉の死後、家臣たちが高吉を祭神として建てた寿栄神社。「寿栄」は、高吉の戒名からきています。現在、神社内には、御殿の正門であった太鼓門が移築されています。

▽ゆかりの地 徳蓮院(高吉墓所)
名張藤堂家の菩提寺で、初代高吉から13代高伸までの墓所があります。農民を救おうと神域に水路を開き自刃した高吉の家臣・福井文右衛門の遺徳を偲ぶ碑もあります。

▽ゆかりの地 名張藤堂家邸
秀吉の時代、この辺りの高台は、筒井定次の家臣、松倉氏が築いた名張城がありました。廃城となっていたこの場所に高吉が御殿を構え、明治維新まで存続。江戸時代の終わりには、現存する建物の10倍以上、1083畳を数えるほどの広大な御殿でした。
現在は当主が私的な生活を送っていた部分を公開。屋敷とともに、「豊臣秀吉朱印状」や「朱具足」(上写真)、「鉄唐冠形兜・一の谷形兜」(左写真)、など貴重な文化財を展示しています。
休館日:月・木曜日休館(祝日の場合、翌日)
入場料:一般200円、高校生100円、小中学生無料

◎ボランティアガイドおきつもの解説が聞ける火・水曜日の来館がおススメ!
詳しくは市HPで

▽ゆかりの地 城下川(梁瀬(やなせ)水路)
城下川は、屋敷の外堀の機能を与えつつ、名張の水田のかんがい用水として整備されました。高吉は、まちの区画整理とともに、この水路をまちじゅうに張り巡らせました。

◆城下町・宿場町としての発展は高吉に始まる
高吉が名張の地を踏んだ当時、織田軍による伊賀攻めで焦土と化した「天正伊賀の乱」から50年近くが経っていましたが、まだ復興には程遠い状況でした。
荒廃した新領地に立った高吉は、神社を再建し、市街地の区画を整理し、伊予国(現愛媛県)から連れてきた家臣や商人、付近から集まる町民の居住地を定めたほか、道路の改修、水利の開発など、今でいう都市計画を実施しました。まさに、名張の城下町・宿場町としての発展は、この高吉の経営から始まったのです。

※高吉(名張藤堂家)が治めたのは、現名張市域の一部(名張地域と、黒田、瀬古口、赤目町丈六・檀)で、他の地域は、藤堂高虎に始まる藤堂宗家が治めました。

■争いごとを避け、まちの人たちを大切にした忍耐の人
高吉公が名張へ来る前は空き寺であった徳蓮院ですが、高吉公によって名張藤堂家の菩提寺と定められて以来、歴代のお殿様のお墓を守り伝えてきました。
高吉公は、まさに忍耐の人。高虎に従い数々の戦をくぐり抜け、尽くしてきましたが、後継ぎは実子の高次に譲ることに。争いごとを避けて、まちの人たちを大切にしてきた人物でした。そんな高吉公は、風水を使った区画整理で名張のまちを災いから守ろうとしたのではないかと考え、自身で調べているところです。
市民の皆さんもぜひ、高吉公のお墓に手を合わせに来てください。

名張藤堂家の菩提寺 徳蓮院 住職 井村道弘さん

■高吉公の生涯を思うと、胸に迫るものがある
温故会で徳蓮院の墓所参拝や清掃などを行っているほか、顕彰会では、高吉公について学ぶ機会を設けたり、ゆかりの地にのぼり旗を立てて高吉公の存在をアピールしたりしています。
高吉公は、名張のまちに尽くしてくれた私たちのお殿様。周囲の思惑に翻弄されても、運命にあらがわず、置かれた場所で自分にできることを着実にこなし、遂げていかれました。その生涯を思うと、胸に迫るものがあります。
今後も歴史影絵などを通して、高吉公の功績を伝えていきます。皆さんも高吉公ゆかりの地を巡ってみてください。

名張藤堂家温故会会長/藤堂高吉顕彰会/はなびし庵 角田勝さん

問合せ:文化生涯学習室
【電話】63-7892