文化 写真でたどる ふるさと再発見No.75

■甲良4500年の歴史をたどる 奈良時代の甲良
◇奈良の都に甲良の米が届いていた!
奈良時代の初め、天武天皇の孫で絶大な権力を持つ長屋王という人物がいました。皇位継承をめぐり、藤原氏の陰謀で自害させられてしまった悲劇の皇族です。
その長屋王の邸宅跡から多量の木簡が出土し、その中に右図の木簡(荷札)も出てきました。
この木簡以外にも「甲良」「瓦」などの記名が入った荷札の木簡が複数見つかりました。甲良の地で収穫した米が奈良の都の長屋王邸宅に納められていたのです。
荒れ地だった甲良の地が、7世紀後半から下之郷・尼子を中心に急速に開墾が進み、8世紀初めには早くも都に米を納めるシステムが整っていたことが、出土した木簡から明らかになりました。

◇米の輸送ルート
甲良の米はどのようなルートで平城京まで送られていたのでしょうか?
都までの一般的な搬送ルートについて、考古学者の宮崎幹也氏は次のように推論されています。
(1)収穫されたコメは集落内の倉に集められる。
(2)集めた米は犬上郡衙(ぐんが)に運ばれる。
(3)琵琶湖の水運、または陸路「東山道(とうさんどう)」で近江国衙(こくが)へ送られ、更に平城京へ送られる。

犬上郡衙(ぐんが):犬上郡を統括する役所奈良時代前半までは福満遺跡(南彦根駅の西)にあり、その後竹ヶ鼻廃寺遺跡(ビバシティ彦根の南)に移る。
近江国衙(こくが):近江国全体を統括する役所。大津市大江(瀬田の唐橋の東)にあった。

◇物流の大動脈「東山道(とうさんどう)」
東山道は、8世紀初め、平城京を中心とした律令国家体制のもと、中央集権体制を確立するために整備された官道の一つです。
その東山道が甲良の目の前を通っていました。尼子西遺跡(尼子下出屋敷付近)の発掘調査で道幅約12m、側溝が両脇に設けられた東山道の跡が確認されたのです。貨幣としては最も古い形の無紋銀銭も出土しました。
奈良時代の古史料には、甲良の住人が都で写経生や下級官吏になって働いていたという記録も残っています。
東山道という物流の大動脈を通じて、甲良の人々は都とつながり、当時の最先端の文化にも間近にふれていたのです。・尼子西遺跡の東山道・無紋銀銭※詳しくは本紙をご覧ください。

参考資料:
櫻井信也「奈良時代の甲良の人々」(甲良の賜II)
宮崎幹也 講演記録(2025.6.17)

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