くらし みなとの100年、みんなの物語~これまでもこれからもこの地域(まち)と~(1)

区制100周年記念 
港区には、地域ごとに紡がれてきたまちの物語があります。区制100周年を機に、その過去と今を語り合い、これからの未来をともに思い描くインタビュー企画をお届けします。

■築港地域
19世紀末~20世紀初頭、大阪港拡張工事に伴う埋め立てで形成された築港エリア。戦前は築港大桟橋の完成や市電開業により、大阪の海の玄関口として栄えました。現在は海遊館や天保山などの観光地と、赤レンガ倉庫や港大橋などの歴史のある建造物が共存しています。そんな築港で生まれ育った辰巳さんに、街の歴史を振り返っていただきました。

◇港の賑わいと経済成長
戦争が終わる1年前に生まれた辰巳さんの幼い記憶に強く残っているのが、昭和25(1950)年のジェーン台風です。「疎開先から戻り、千舟橋近くの商店街に住んでいました。台風で水が迫っていると聞き、父に背負われて姉とともに近くの港湾局の建物に避難しました。すると進駐軍の兵士が現れ、3階まで運んでくれたんです。そのおかげで助かりました」。当時は2メートル近く浸水し、かかりつけの医師がいかだで診察に来たこともあったそうです。
戦前の築港地域は、大桟橋や市電、大潮湯などで賑わっていましたが、戦争で壊滅的な被害を受けました。「小さかったので覚えていませんが、復興は本当に大変だったと思います」と辰巳さん。それでも日本経済の復興とともに大阪港の貿易も成長し、港湾局や税関の宿舎があった築港は病院や学校などの生活インフラも整っていたといいます。

◇「港」は、時代の波を肌で感じられる場所
大学卒業後、辰巳さんは父の跡を継いでこの地で商売を始めますが、商店街での商いは世界情勢の影響を大きく受けたと言います。「同じ商店街の時計店でデジタル腕時計が300本売れたり、ロシア船の船員が絨毯をトラックいっぱい買って行ったり。アメリカと韓国が繊維交渉していた頃は、韓国船が来るとジャンバーが大量に売れました。港は、時代の波を直に感じる場所です」。昭和40年代は特に景気が良く、船が多すぎてバース(荷下ろしを行う停泊所)が足りず、沖合で荷下ろしを行うことも。昼夜問わず働く人が多く、パンやおにぎりの店が賑わい、船員向けの酒場も増えていきました。しかし港湾設備の限界などから徐々に船は減り、まちの活気も次第に失われていきました。

◇港の変化と地域のこれから
現在の築港エリアは、海遊館をはじめとするインバウンド向けの観光地として賑わいを見せています。そんな中で辰巳さんは、「商業地が栄えるのも良いことですが、地域を元気にするには、やはり住む人が増えることが大切」と話します。「終戦後の皆さんは、情熱を持ってまちを立て直そうとしていました。政治家も、住民の顔を見て、声を聞いてくれていた。今はグローバルな時代と言われますが、外に向くだけでなく、内側(地域)に目を向けることも必要ではないでしょうか」。
これからの築港については、「地域の人たちが自然と集まれる場所をつくりたい」と語り、港中学校と統合予定の築港中学校跡地を、地域のコミュニティセンターとして活用できたら──という思いも口にされていました。また、「コミュニティが別々になると、日本の中に“別の国”ができてしまう。同じコミュニティとしてつながることが大切だと思います」。今後増えていく外国人住民についても、共に暮らせるまちづくりの重要性を感じられていました。

◇辰巳圭作さん
昭和19(1944)年、吾妻町(現在の弁天地域)に生まれる。築港小学校卒業。東京の大学を卒業後、港商店街で食料品店を営み、船舶に食料品や日用品などの物資を提供するシップチャンドラー業務も行った。地域貢献活動にも力を入れ、今年3月末まで築港地区社会福祉協議会会長を務める。その他、地域活動協議会会長、地域振興会会長も歴任。