- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府池田市
- 広報紙名 : 広報いけだ 2025年12月号
■畑村の牛飼場
◇池田の牛
前回(本誌10月号)取り上げた『摂津名所図会』「猪名川」には茶店で休む相撲取りのほか背中に俵を載せた牛が描かれています。俵の中身は池田炭(産地は摂津国能勢・川辺郡)と思われます。
ところで、『新修池田市史』第2巻には池田に集散する荷物(商品)は馬持(馬の所有者)が独占していたという記述があります(196ページ)。しかし実際には馬のほか牛も荷物を運送していました。江戸時代、この地域では中層以上の農家は農耕用・畜肥用のほか荷物の運搬に牛を利用し、飼育していました。こうした村では池田が行う公用輸送(幕府が荷物の運搬を命じる)に関わる代わりに、札牛といって駄賃稼(荷物を運んで現金収入を得る)が認められています。
◇街道を往来する牛馬
能勢では出野村(現能勢町野間出野)から池田に通じる道を牛馬道と呼んでいました(『能勢町史』第3巻)。この言葉が示すように、池田と能勢・亀山(亀岡)を結ぶ街道筋の村々からは、年貢米や池田へ出荷する商品を運ぶ牛や馬が行き来していました。山道での運搬は馬よりも牛の方が得意であったため街道沿いでは牛は現金収入を得る大切な動物でした。このため街道沿いには草山を牛飼場とする村が点在していました。その一つに、今回紹介する畑村があります。
◇畑村の本庄山
五月山の南麓に所在する畑村は西国巡礼街道が東西方向に走り、街道沿いに集落(東畑村・西畑村)があります。その北側には本庄山があり、集落に近い方を前山、集落からは遠くて見えない所を裏山といいました。前山は里山の性格を持ち、裏山には松木立があり、本庄山は、畑村だけでなく周辺の村むらも、柴や松茸など山の恵みを共同で享受する入会の山でした。
◇本庄山の牛飼場
当時、畑村では数十頭の牛を飼育していました。その飼育場として本庄山に牛飼場が開かれ、享保13(1728)年にはさらに拡張しています。また、この頃から畑村では、裏山の松木立を伐採、割木にして池田や伊丹の酒造家へ売却するようになっていました。松木立の商品価値が高まり、やがて松木の伐採を巡って畑村と入会の村むらとの間で争いが起こり、訴訟へと発展しました。
寛政年間(1789~1801)訴訟が終結すると、畑村では訴訟費用返済のため、裏山の一部を村人たちに分割し、牛飼場を含む草山も売却してその代銀に充てます。この時、売却した草場が立木山になっても村方は異議を挟まないことや、一部は土取場とすることなどが村方と村人たちの間で確認されました。
本庄山は分割され、私有地化が進んだことで、昔ながらの牛飼場の姿も変わっていったものと思われます。
(市史編纂委員会委員・野高宏之)
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