文化 我がまち朝来 再発見(第215回)

■江戸時代の備蓄米
市内では稲刈りが終わった箇所も多いことと思いますが、今年は梅雨の時期が短く、高温が続いたため、米の出来が気になるところです。政府による備蓄米の放出が話題になりましたが、今回は江戸時代の備蓄米について紹介しましょう。
江戸時代、備蓄米に取り組んだのは、8代将軍徳川吉宗でした。吉宗は享保の改革を行い、財政の再建に尽力しました。「米公方(こめくぼう)」とも呼ばれた吉宗は、新田開発を進めて、年貢の増収を図るとともに、上げ米を実施しました。上げ米とは、大名に対し石高(こくだか)1万石につき100石を臨時に納めさせるもので、これにより、幕府の年貢収入は1割以上増えました。
NHK大河ドラマ「べらぼう」でも描かれているように、10代将軍徳川家治(いえはる)のもと、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)が権勢を振るっていたころ、天明の大飢饉(1782~1788頃)が起こり、百姓一揆や打ちこわしが頻発します。
その後、11代将軍徳川家斉(いえなり)の時代に老中に就任したのが松平定信(まつだいらさだのぶ)です。吉宗の孫にあたる定信は、幕政の改革に乗り出します(寛政の改革)。田沼時代に緩んだ綱紀を粛正し、幕府の権威を取り戻すことに取り組みます。財政を安定させるため行った政策の一つが囲い米でした。大名の石高1万石につき50石を納めさせるもので、自然災害の発生に備え、各地に建てた蔵(社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう))に米を備蓄させました。
朝来市内でも生野銀山周辺において民間の者が米を備蓄していたことが、茨城大学・添田仁(そえだひとし)教授の研究で明らかになってきました。それは石川家という豪農商で、当時銀山町に隣接する森垣村で広大な農山地を有する地主であったとともに、金融業や林業、酒造業で財をなし、生野代官とも深いつながりを持っていたと考えられています。
江戸時代の生野銀山町の人口はおよそ6000人前後、これだけの人数の食を支え得る土地や生業は町内にはありませんでした。主食たる米は生野代官所に納められた年貢米が、手当として労働者に配分されていたようです。しかし、天保7年(1836)以降、たびたび発生した大雨や大水、干ばつなどの気象災害により、米不足が顕在化し、米の値段が高騰しました。困窮者が増えてきたため、石川家の当主であった魚連(なつら)は粥(かゆ)や雑炊などの炊き出しをしたり、米の安売りを始めていることが日記から読み取ることができます。さらに、自宅の敷地内に自らの資金によって、食料不足に備えて蓄えた米などを保管する「御囲蔵(おかこいくら)」を建てています。この蔵は後に改修や拡充をすることで、森垣村だけではなく、近隣の村を合わせた穀類の貯蔵に利用していたようです。豊作のときには米を多めに買い入れ、不作の際にはできるだけ安く周辺の住民に売るといったことで、地域に貢献しており、たびたび大坂代官から褒賞(ほうしょう)を受けています。
石川家にはまだまだ解明されていない豊富な歴史資料が保管されています。今後、これらの資料から銀山町生野に関する、新しい発見が見つかることが期待されます。
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