文化 津山の歴史 あ・ら・か・る・と

■藩主の子どもたち
津山藩主の子どもたちがどのように育てられたのかは、よく分かっていません。しかし、「国元日記」などに、断片的ですが藩主の子どもたちの記事があります。今回はそれらの記事の中から、津山藩松平家4代藩主松平長ながたか孝とその子どもたち、そして長孝の子で若くして藩主となった康やすちか哉とその子どもとの関係が垣間見れる記述を紹介します。
長孝が藩主であった時期に、津山で4人の子どもが生まれました。江戸時代、藩主は原則江戸に約1年間滞在し、次の約1年は津山で過ごしました。子どもたちは、父長孝が江戸にいて津山を留守にする間は、本丸御殿とは別の建物である「下御屋敷」で過ごします。長孝が津山へ帰ってくると、長孝が過ごす本丸御殿へ移動しました。これは、父と子どもたちが少しでも多くの時間を共有するためだったのではないでしょうか。
また、長孝の娘は、満1歳2カ月ごろから父と日を合わせて衆楽園に行くようになりました。寛延2年(1749)3月には、4日、7日、12日、16日と頻繁に衆楽園へ行っています。その後、19日に長孝は江戸へ出発しました。津山にいる時は子どもとの時間を大切にし、出発前は別れを惜しんでいたと考えられます。
次に、康哉と、息子 仙千代(せんちよ)との関係を見てみます。天明元年(1781)に津山で生まれた仙千代について、「堕涙口碑(だるいこうひ)」という書物にいくつかのエピソードが記載されています。
・康哉は仙千代の世話を託した人に、あまりいたわらず、手荒に育てるよう指示した。託された人は仙千代と相撲を取る際、他の付き人がわざと負けるのに対し、ご機嫌取りをせず投げた
・5~6歳のころ、「三才図絵」(現在の百科事典のような本)などを詳しく記憶していた。魚を見せると、図絵のうち、どこに載っている何という魚であるかを間違いなく当てていた
・7歳のころには金・銀・米の値段など、経済のことも気を付けていくように康哉から指示があった
これらは、藩主の教育に対する具体的な指示や、子どもの成長が記された興味深い事例です。
ここで紹介した記録は、200~300年前の藩主家一族の事例ですが、現在のわたしたちも共感できる部分があるのではないでしょうか。

八時過御対面所(現在の衆楽園)江
お直様(長孝の娘)同所(御対面所)江
「国元日記」(寛延2年3月7日)の一節
長孝と娘が同日に衆楽園に行っていたことが分かります
※詳しくは本紙をご確認ください。

問合せ:津山郷土博物館(山下)
【電話】22-4567