- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県安芸高田市
- 広報紙名 : 広報あきたかた 令和7年11月号
■シリーズ「博物館コレクション」第32回
安芸高田市歴史民俗博物館 学芸員 古川 恵子
◇住吉神社棟札(むなふだ)
1591(天正19)年7月
棟札:建物の棟上や修理の際、建物名や年月日、願主、大工、祈願文などを記して棟木に打ち付けた木札。
※詳しくは本紙をご確認ください。
毛利輝元が郡山城から未完の広島城に入城したとされる1591(天正19)年4月。それから間もなくして、住吉神社社殿(吉田町)のふき替えが行われ、棟札はその時のものです。大檀主は輝元(1553〜1625)とその妻で、棟札にある「女檀戌午歳」が戌午(つちのえうま)年(1558(永禄元)年)生まれの妻を指しています。中世の棟札に女性が登場するのは珍しいことです。
輝元の妻は、五龍城(甲田町)を本拠とする宍戸隆家と毛利元就の娘の間に三女として誕生しました。いとこに当たる輝元との婚約は、1563(永禄6)年6歳の時には調っており、隆家から輝元の父隆元に祝いの太刀と馬が贈られたことが書状から分かります〔注〕。しかし、当初元就はこの縁談に難色を示していました。敵対していた九州の大友氏と講和に伴う縁談話もあり、戦国大名となった毛利家を継ぐ輝元には同じ戦国大名の娘が相応であると考えていたようです。
結局、婚姻は成立し、輝元に嫁いで(江戸時代の記録では1568〈永禄11〉年)郡山山頂で暮らし、その後広島城に移り南の御方と呼ばれました。関ケ原合戦の後は萩に移り、輝元の死後1631(寛永8)年74歳で亡くなっています。子どもはいなかったようで(早世の説もあり)、輝元の跡を継いだ秀就(1595〜1651)や次男就隆(1602〜1679)の母は側室の女性です。
中国地方を制した戦国大名、そして豊臣政権下では五大老となった輝元ですが、関ケ原合戦により減封された後は、防長2か国で毛利氏再興に力を尽くします。その波乱万丈の人生を共に歩んだ南の御方。彼女の資料は乏しくその生涯を詳しく知ることはできませんが、安芸高田市に残されたこの棟札は彼女の願いが込められた貴重な資料といえます。
※年齢は全て数え年〔注〕…宍戸隆家書状と住吉神社棟札は企画展「毛利輝元の原点」で展示予定
