- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県柳井市
- 広報紙名 : 広報やない 令和7年5月8日号
■毛利軍の防長侵攻(5) 帰農した武士
戦国時代には、血なまぐさい戦いが際限なく続きました。勝利して領土を拡大し権力を強めたところで、次から次へと新たな戦闘に遭遇するのです。その度に死者の墓が増えるばかりです。人間であれば誰もがこの現状を歎(なげ)くのでしょうが、武将たちは恐怖心を押し殺して、残酷な運命に従いました。ところが、例外的に武士をやめて農民になる者がいました。
伊陸において武士を捨て、農民になった人物について紹介しましょう。伊陸盆地の西端(せいたん)に築いた藤井城(久可地城)の城主が、帰農したのです。藤井(ふじい)正隆(まさたか)は大内氏の配下にある地侍だったのですが、西国の雄であった大内(おおうち)義隆(よしたか)が重臣(じゅうしん)の陶(すえ)晴賢(はるかた)に自害させられた状況を見て、「武士の世に安住の地はない。城を放棄し、武器を捨てることにする」と決心したのです。厳島(いつくしま)での合戦にあたり、藤井正隆は陶晴賢から参戦するように命じられましたが、「農民になるので出陣はしない」と返事をします。それは自分の道を選択することにとどまらず、陶晴賢への反逆行為でした。したがって厳島合戦の後には、切腹の命が下るはずでした。正隆は自分の命を捨てて、一族郎党(ろうとう)の命を救う決断をしたのです。正隆の判断は、結果的に幸運でした。歴史が大転換したのです。陶晴賢の率いる大軍が、厳島において全滅したのです。もしも参戦していたら悲惨な状況に放り込まれたはずでした。
やがて奇遇にも、昭和になって藤井氏城跡の絵図が出てきました。江戸時代後期の文政(ぶんせい)7(1824)年に藤井氏の子孫が描いた絵図です。その絵図によって、連峰の4か所に郭(くるわ)が配置されたことが解ります。氷室岳から西へ延びる急崖(きゅうがい)の上に、実戦に備えての城が描かれています。
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