文化 〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-近世編

■岩国に入封(にゅうふう)した吉川(きっかわ)広家(ひろいえ)(1)
毛利本家を守る城づくり
前回は関ケ原合戦での敗北により、中国地方の全域を支配していた毛利(もうり)輝元(てるもと)が周防・長門に領地を縮められ、吉川広家が周防の東端を領したことに触れました。今回は、吉川広家が岩国に入って来た際の様子を紹介しましょう。
その時の経緯について、吉川家には次のような話が伝えられてきました。「関ケ原合戦の直前に吉川広家と徳川家康とが密約を交わし、吉川軍が毛利軍の前に陣取って本隊を進軍させなかった功績によって、家康は吉川広家に防長両国を与えようとした。ところが広家は『私がとった行動はあくまでも毛利本家のためであり、防長両国は毛利家にお与えください』と辞退し、『私には周防の東端を少しいただければ本望です』と答えた」との話です。記録にはなく、あくまでも口伝であり、事実かどうかは不明です。ただ岩国城が築かれた位置や地形を見ると、東からの侵攻に備えて、吉川家が盾になって毛利本家を守ろうとした気概が伝わってきます。
広家が創った岩国城は、極めて堅固な城です。堀の役割を果たす錦川が城山を取り巻いており、敵兵を寄せつけません。しかも城は急峻な崖の山上に築かれており、容易に攻め登ることができません。岩国城のような防禦(ぼうぎょ)完璧な山上の要塞は戦国時代の産物であり、安泰に向かいつつある時には不要な代物になりつつありました。合戦重視の山城から、経済重視の平城に変わりつつあったのです。
江戸城・大坂城・広島城などは、いずれも商業活動に都合の良い、海を臨む広い平地に築かれました。急崖(きゅうがい)の山上に岩国城を築いた吉川広家は、生粋(きっすい)の戦国武将であったのです。広家は戦乱の時代においては勇猛果敢な武将であり、多くの武士の手本になったのですが、もはや時代遅れになったのです。昔も今も、時流に素早く乗る人物がいる一方で、頑なに古い美徳や生活スタイルを捨てることのできない人物がいるのです。

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