- 発行日 :
- 自治体名 : 愛媛県伊方町
- 広報紙名 : 広報いかた 2025年12月号
ジョンソン
アンドリュー・ブレイディ
マラソン(後編)
前回は紀元前490年、ペルシア帝国のダレイオス1世皇帝が都市国家アテネを打ち砕くためギリシャ本土進攻を決断し、それに対抗するためアテネの指導部は動員可能なすべての兵士を戦場に送り込んだところまでお話ししました。
軍隊のほとんどが出陣したため、アテネの街は完全に無防備となり、政府に残された手段は祈る以外ありませんでした。ペルシア軍の兵力はギリシャ軍のほぼ2倍と数で劣り、南西ギリシャの戦歴豊富なスパルタ兵の支援も得られないのでは、状況は絶望的でした。日が過ぎても、マラトンからアテネへの知らせは依然として途絶えたままでした。ギリシャ軍は、ペルシア艦隊の増援が到着する前に、早く決戦をしかけているのか?それとも、スパルタ兵からの援軍が到着する可能性にかけ、可能な限り防衛陣地でもちこたえているのか?アテネの民は不安な時間を過ごしました。
歴史家ヘロドトスによれば、その答えは最も劇的な形で届きました。ギリシャ軍は決戦をしかけることを決めていました。戦闘の最後を見届けた使者のフィリッピデスは、恐怖に震えるアテネ市民に結果を伝える任務を託されました。マラトンからアテネまで約40キロを休むことなく走り抜けたフィリッピデスは、アテネの民の前で力尽きて倒れ、最後の力を振り絞って生涯最後の言葉を吐きました。「我々は…勝った!」
ギリシャとペルシアの戦争は継続的に何年も続きましたが、マラトンの戦いは西洋史における決定的な転換点となりました。この戦いは、ギリシャ人が東方の強大な帝国に対抗できることを証明しました。さらに、ギリシャの軍の強みがスパルタ兵だけではないことも示しました。アテネ人、プラタイア人、そしてギリシャ語圏全体は、侵略から身を守り自らの運命を切り開く自信を見出したのです。演劇、修辞学、建築、数学、政治など西洋思想の多くはギリシャの伝統に根ざしており、これらの分野における主要な発展の多くは、ギリシャがペルシアからの自由を確固たるものにした後に初めて実現しました。マラトンの勝利がなければ、その後の2500年にわたるヨーロッパ(ひいてはアメリカ)の歴史がどうなっていたかを想像することは難しいと思います。
約2500年経った現在でも、私たちはフィリッピデスの伝説的な走りを再現することで、ギリシャ人の遺産をたたえ続けています。マラトンからアテネまで、42キロの道のりを。
