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◇十本松峠道と諸田仁右衛門さん(令和7年4月25日更新)
初夏を思わせるような快晴に恵まれた4月19日、宇和島市三間町でオンツツジを楽しむハイキングイベント「十本松峠道/予土線/オンツツジ見学会」が開催され、私もお招きをいただき参加しました。
目的地は、三間町と吉田町を結ぶ街道の中間地点にある「十本松峠」。江戸時代から明治頃までは人や物資の往来が盛んでしたが、自動車が普及して徒歩での道は次第に使われなくなり、昭和の終わりにはすっかり荒廃していたそうです。この歴史的な街道を復活させようと立ち上がったのが「十本松峠の整備と復活の会」の皆さん。平成30年から活動を開始して、うっそうと茂った樹木や藪を切り拓き、手作りの橋や手すりも設置して、三間から吉田まで歩いて行ける道を整備したそうです。メンバーの皆さんのご健闘に、拍手を送りたいと思います。
出発を前に、約250年前に建てられ宇和島市の文化財にも指定されている「旧毛利家住宅」で、コースの概略や十本松峠の歴史について説明を受けましたが、その中でとても興味深い話が出てきました。なんと十本松峠の街道は、目黒村(今の松野町目黒)の「諸田仁右衛門(もろた・にえもん)」という人が開設したというのです。確かに松野町の目黒、吉野、蕨生、奥野川の4地区は吉田藩領だった史実がありますが、なんで目黒の人が三間の大仕事を任されたのか、松野町民としてうれしかったのと同時に不思議に思いました。
というのも、この仁右衛門さんは三間町では有名人らしいのですが、松野町内では伝承資料がほとんどなく、地元の目黒でもその存在を知られていません。恥ずかしながら私も知りませんでした。また、今の目黒に諸田という姓は残っていません。
そして、さらにおもしろい情報がありました。吉田藩がこの街道を作った理由は、鬼北地域(松野町・鬼北町・三間町)の年貢米を、宇和島藩領を通らずに吉田藩まで届けるためだったというのです。つまりそれほど宇和島藩と吉田藩は仲が悪かったのですね。殿様同士もとは兄弟なのに。
そこで気が付きました。宇和島藩と吉田藩の争いは、松野でもあったということを。松野町目黒の目黒ふるさと館に収蔵されている国の重要文化財「目黒山形模型」は、両藩の境界争いが勃発して大騒動となり、江戸幕府に裁定してもらうために作られた裁判資料なのです。しかも、この目黒山形模型が作られたのが1665年(寛文5年)、十本松峠道の完成が1675年(延宝3年)でわずか10年しか違いません。これは、何か歴史ミステリーが隠されているのではと思い、ワクワクしてきました。
ここからは、私の妄想的な謎解きになります。実は仁右衛門は、仲の悪い宇和島藩と吉田藩を監視するための江戸幕府のスパイで、だから地元では目立つ行動をしていなかったのではないでしょうか。そして仁右衛門は、両藩の争いを避ける手段として、率先して十本松峠道の開設に取り組んだのではないでしょうか。
これは歴史の真実に迫るなかなかの推理だと自画自賛していたのですが、また新たな事実を教えてもらいました。なんと吉田藩は、十本松峠道の開設を幕府から謀反の兆しとして嫌疑をかけられるのを恐れ、仁右衛門が勝手にやった工事だとして責任を押し付け、自害させたのです。うーん、なんか辻褄が合わなくなってきたようで、私の仁右衛門=幕府のスパイ説は、どうも泥沼に入ってしまいました。
真実は不明ですが、仁右衛門は今でも三間の皆さんには「にえもんさま」として手厚く祀られ、街道の脇には供養碑も建立されています。江戸時代に、目黒から三間を通って吉田に至る人々の往来や地域のつながりに思いを馳せ、歴史ロマンを感じることができた楽しい一日となりました。