くらし 〔令和版〕山城作業日記 河後森城(かごもりじょう)からこんにちは -13-

これまでに解説したように、城では防御のための普請(ふしん)と呼ぶ大規模な土木工事(切岸(きりぎし)・土塁(どるい)・堀切(ほりきり)など)が行われていましたが、これに作事(さくじ)=建築工事が加わることで、とても強固な守りを展開することができました。
その作事のひとつが、櫓(やぐら)の建築です。櫓は「矢倉」や「矢蔵」とも記されることがありますが、主には防御用の施設で、多くの場合、城の中心部である曲輪(くるわ)(平坦地)の端(はし)や隅(すみ)に築かれていました。河後森城の発掘調査でも、平面的に見て長方形と正方形の大きく2タイプの櫓が検出されています。
短辺と長辺をもつ前者の櫓は、長屋状になっていることから「多門櫓(たもんやぐら)」と呼ばれる種類で、河後森城では西第十曲輪の西端で1棟発見されています。これは、短辺3メートル、長辺8メートルの規模であり、地面に穴を掘って柱を立てた掘立柱(ほったてばしら)の構造でした。この多門櫓は、中世という古い段階であるため土かべと板ぶき屋根による簡素なつくりをしていたようですが、崖のように切り立った直下の切岸(きりぎし)と組み合うことで、敵の侵入を食い止める重要な役割を果たしていました。(続く)