- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県行橋市
- 広報紙名 : 広報ゆくはし 令和8年2月号
◆仏山の漢詩集の序文を書く 篠崎小竹(しょうちく)
◇仏山、漢詩集の出版に取り掛かる
村上仏山は弘化三年(一八四六)、長年の夢であった漢詩集の出版の準備を始めた。ただ出版するには、江戸や京坂の版元に頼まなければならないが、地方の名もない詩人の出版を引き受けてくれるかが気がかりであった。
仏山は版元の信用を得るためにも文壇の大家に序文や評文を依頼することにし、この件について、京都に住む旧友で儒学者の池内陶所(とうしょ)に協力を求めた。陶所はそれに応え仏山の詩集の原稿を携え京都、大坂、近江へと諸大家を巡り、寄稿を依頼し、その多くから応諾を得た。
◇篠崎小竹の序文
仏山の漢詩集『佛山堂詩鈔(ぶつざんどうししょう)』に序文を寄せた一人が文壇の重鎮、篠崎小竹だった。
篠崎小竹は天明元年(一七八一)、豊後の医家、加藤周貞の次男として大坂に生まれた。
篠崎三島(さんとう)の私塾梅花社(ばいかしゃ)に入門し、古文辞学(こぶんじがく)を学び、三島の養子に迎えられるが、養家を抜け出し江戸に遊学。古文辞学から朱子学に転向した。のちに梅花社を継ぎ、大いに発展させた。
小竹は文壇の大御所で、名文家でもあったため、序文などの依頼が多く、小竹に認められることが文壇への登竜門でもあった。
池内陶所の訪問をうけた小竹は、初めは体調を理由に依頼を断った。田舎詩人の作品だと軽くみていたのだろう。ところが陶所が持参した詩集の原稿に目を通して、その出来栄えに驚き、一転承諾した。その時の印象を「‥開巻数首、既(すで)にして人意(じんい)を悦(よろこ)ばす。愈(いよいよ)読んで、愈楽し‥」と序文に記した。仏山の詩集の校閲を終えた嘉永四年(一八五一)一月、小竹は急逝しこれが絶筆となった。享年七一。『佛山堂詩鈔』第一篇が出版されたのはその翌年である。
生前、篠崎小竹は行事の豪商飴屋(あめや)を訪ねたことがあり、そこで頼山陽(らいさんよう)や田能村竹田(たのむらちくでん)等とともに寄せ書きを認(したた)めている。
(村上仏山・末松謙澄顕彰会 小川秀樹)
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