- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県筑紫野市
- 広報紙名 : 広報ちくしの 令和8年2月号
■「TUNAGU II」とは
人と人、心と心をつなぐ、世界とつなぐ―人権尊重のまちづくりの一環として、さまざまな人権問題について市民の皆さんと共に考えます。
■「粉骨(ふんこつ)」を尽(つ)くした人生(じんせい)
そのだ ひさこ
大正13年(1924年)に生まれ、101才という長寿を生き抜いてこられた林力先生がこの11月、静かに亡くなられた。多忙になり、なかなかお会いできなくなると、「もしもし、元気ですか?林です」という電話をいただいていた。いつも懐かしい穏やかな声だった。「林先生が死ぬはずはない。とにかく、まずお会いせねば」と思い、ご遺体に会いに急いだ。ご自宅にたどり着くと、寝顔のようなきれいなお顔があった。「先生だけは、いつまでも生きていてくださると思っていたのに」と無礼千万なことを口走り、涙があふれた。もう、声も聞けない。
昭和31年に福岡市長選挙立候補をめぐって、対立候補の陣営から差別ビラが公然とまかれるという事件が起こった。その大変な差別事件の後、部落差別をはじめとした、あらゆる差別に戦いを挑み、無くしていく「同和教育」を始めた大先輩である。林先生たち3人の教師によって、福岡市同和教育研究会は発足した。これが、福岡における同和教育の始まりである。しかし、組織を立ち上げたものの、指針も指導書も無く、解説書や参考書も無い。先達もいないという状態だった。だから、ひたすら「むら」(被差別部落)に行くしかなかったのだという。被差別部落を訪れる中で、部落差別の現実に学ぶという常道がつくられていくのだが、「むら」に教えに行っているようで、実は大切なことを教わっているということが身にしみてきたという。林先生の言葉には、身体丸ごと「むら」にぶつかり、関わりつづけてきた先駆者としての「熱と勢い」が野太い声とともにいつもあふれていた。福岡市同和教育研究会を立ち上げた林先生は、福岡県同和教育研究会初代会長やハンセン病被害者家族訴訟原告団団長などを歴任した。
林先生にとって同和教育運動をしてきた大きな財産は、子どもの見方や教育というものの基本的な考え方が変わったこと以外に、ハンセン病を患っていた父親のことを人の前で語る力を与えられたと言っていた。林先生の「恥でないことを恥だと思ったとき、初めて恥となる」という言葉は心の臓までしみわたってくる。
私は50歳のとき、先生から突然呼び出され、大学で夜間の人権・部落問題論の講義をすることになった。教員を退職するとともに、いくつかの大学の同和教育論や部落問題論、女性問題論なども担当した。その途中、喉の癌(がん)になり、低く出にくくなった声のリハビリに通う中でライブを始めた。林先生は歌が大好きで、私のライブにも来て「島原の子守歌」を朗々と歌ってくださった。その生涯、燃やしつづけた「いのちの熱さ」は、決して忘れない。
■意志は、今後もつながる
本市もさまざまな場面で、林力先生には大変お世話になりました。
父親がハンセン病を患い、「父ちゃんのことは絶対に世間に知られないように」という言葉のとおり、父親のことを隠し通してきたと言います。しかし、部落差別に立ち向かう人たちの姿に触れ、差別する側がおかしいことに気づき、恥ではないことを恥だと思ったとき、初めて恥となるという思いに至ったと言います。その後、ハンセン病家族訴訟原告団団長として、令和元年に当時の安倍首相と面談しました。安倍首相の「ハンセン病に対する厳しい差別と偏見は否定しがたい事実だ。皆さまと一緒に差別、偏見の根絶に向け、政府一丸となって全力で取り組む」というあいさつの中にもあるように、林先生の意志は、今後もつながっていくのです。
問合せ:教育政策課
