文化 大宰府の文化財vol.485

■大野城・基肄城1360年

大宰府の長官として都から赴任した大伴旅人が、自邸(じてい)で催した「梅花の宴」。日本最古の歌集『万葉集』に収録されたこの宴の序文から二文字を採り、元号「令和」は誕生しました。
この大伴旅人が生まれた西暦665年は、太宰府市域の北にそびえる四王寺山(標高410m)の山上に、国内最大級の古代山城・大野城が築かれ、また南の基山(きざん)(佐賀県基山町・筑紫野市、標高404m)の山上に基肄城が築かれた年です。
当時日本は対外危機の中にありました。かねてより交流があった百済国(西暦660年滅亡)の復興のため派兵するも、朝鮮半島西部での白村江(はくそんこう)の戦いで中国の唐に敗れ(663年)、大陸からの侵攻に備えて水城を築いていたのです(664年)。
665年の秋八月、朝廷は長門国(山口)そして筑紫に百済貴族を派遣して城を築かせます。筑紫には憶礼福留(おくらいふくる)・四比福夫(しひふくふ)を遣わし、大野城と基肄城の二城を築かせたことを、歴史書『日本書紀』は記しています。
憶礼福留は、白村江敗戦後日本の船師(ふないくさ)とともに渡海し亡命した貴族で、兵法(へいほう)に詳しい人物でした。四比(しひ)福夫は、百済の都・泗沘(しひ)城と同名であり、王都にゆかりのある一族の可能性があります。二人とも大陸的な戦法や築城技術に長けていたのでしょう。
大野城は、四王寺山の頂部の南北約2km・東西約1.5kmという広大な範囲を土塁や石塁などで囲んだ城です。基肄城とともに日本ではじめて城壁を備えた大陸系の城でした。土・砂を薄く積み叩(たた)き締(し)める「版築(はんちく)」という中国文明を形成した土木技術を使った土塁や、巨石を積み上げた石塁など、大陸由来の土工技術が使われました。しかも巨大で、百済王都の北辺を守る扶蘇山城とよく比較されますが、規模はこれを凌駕しています。
世界史的にも、また技術の伝播という点でも注目される山城ですが、これを見た当時の人々は、この地が激動する大陸に飲み込まれ戦場になると悲嘆したかもしれません。しかしその後は、軍事・外交の最前線として大宰府が整えられるとともに、築城の年に生まれ国際的な教養を育んだ人物が梅花の宴を催すような文化の地となり、両城も万葉歌に詠まれました。
「秋八月」は旧暦で、今年は9月下旬から〜10月中旬にあたります。築城1360年を迎えた秋の山城に行ってみませんか。

文化財課
井上(いのうえ)信正(のぶまさ)