文化 太宰府の文華~公文書館だより(138)~

■近世紀行にみる太宰府―清源院軌子(せいげんいんのりこ)の旅―
太宰府天満宮の絵馬堂に「仰高(ぎょうこう)」と書かれた大きな扁額(へんがく)が掲げられています。「仰高」には「徳の高い人を敬い慕う」という意味があります。これは宝暦(ほうれき)14(1764)年に奉納されたものですが、19年後の天明(てんめい)3(1783)年4月4日、天満宮に参詣し、この扁額に目を留めた一人の女性がいます。
清源院軌子(1725-94)、名君と名高い熊本藩主細川重賢(ほそかわしげかた)の妹です。21歳の時宇土藩五代藩主細川興里(ほそかわおきさと)に嫁ぐも、わずか10ヶ月で夫と死別し、髪を下ろして清源院と称されました。その後和歌や文学に親しみながら、江戸の屋敷で静かに暮らしていた軌子でしたが、天明2(1782)年8月、肥後国熊本へと旅をすることになりました。国元である肥後を訪れることは以前からの希望でした。兄の参勤交代に合わせてようやく熊本行きが許可された時、軌子は57歳になっていました。
彼女が著した2編の紀行文『海辺(かいへん)の秋色(しゅうしき)』と『青葉(あおば)の山路(やまじ)』は、この旅の往路と復路の記録です。人生のほとんどを江戸で過ごした軌子にとって初めての、そして最後の遠方への旅でした。その貴重な日々を惜しむように、江戸へと帰る復路では驚くほど精力的に動き回り、道中の名所旧跡を数多く訪れています。山道を歩き、船に乗り、京の名所を巡り、伊勢参宮を果たし、往路の東海道とは道を変え、中山道(なかせんどう)を通っての江戸入り。忙しくも充実した57日間の旅でした。
宰府の天満宮を訪れたのは復路4日目のことです。早朝に松崎宿(まつざきじゅく)(現在の小郡市)を発ち、徒歩で山道を行き、午後には天満宮へ到着しました。そこで「仰高」の扁額を見て、この額と祭神菅公の名を詠み込んだ和歌を奉納しています。

天満(そらみつ)る其(その)名を世々(よよ)に諸人(もろびと)の
仰ぐも高き神のみやしろ

筑前国内で彼女がわざわざ立ち寄ったのは、天満宮だけです。名所であることはもちろんですが、文事を好む軌子にとって、菅公を祀る天満宮への参詣は欠くことができないものでした。忘れられない旅の思い出の一つとなったことでしょう。

宰府市公文書館
荻野(おぎの)寛美(ひろみ)
ページID:7241