- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県添田町
- 広報紙名 : 広報そえだ 令和7年10月号
■保存修理で見えた英彦山信仰の広がり
現在保存修理を行っている英彦山神宮上宮。保存修理を行ったことにより英彦山が広い地域で信仰されていたことが証明されました。今回の歴まちコラムは、保存修理の過程で発見された英彦山信仰についてお伝えします。
文化財の保存修理は、一般的に時間がかかると言われます。これは悪い部分だけを取り替え、当初からの部材は可能な限り使い続けるため、文化財の現状をしっかりと見極める調査が必要となるからです。時には文化財を解体することもあり、この過程で普段は見られない部分も確認でき、新たな発見につながることもあります。
その事例の一つが英彦山神宮の上宮社殿です。社殿は木造で宝殿と拝殿があり、それぞれ天保13(1842)年と弘化2(1845)年に建てられました。現在、社殿は倒壊の恐れがあることから、英彦山神宮が悪くなった部分を新しい部材へ取り替える工事を行っています。この過程で、柱や床板、屋根裏などに使われている部材の現状を確認するため解体を行い、ほぼ骨組みだけの状態となりました。その結果、これまでにも柱や壁板などに墨書きがいくつか確認されていましたが、新たに縁側の床を支える部材にも墨書きがあることが分かったのです。その多くは江戸時代から明治初年頃に上宮へ参詣した人々が、その記念として自分の住所と名前、参詣日を書いたものでした。
明治時代の資料によると、九州に住む約4分の1の家に英彦山のお札が配布されていたようで、上宮社殿の墨書きには「久留米」「天草」など、九州各県の地名が見られ、英彦山信仰が九州一円に広がっていたことを証明するものと言えるでしょう。佐賀県の神埼地方では、現在でも英彦山へ五穀豊穣と無病息災を祈願して参詣する風習があり、英彦山へ参詣する1か月前には身を清める行事として「水かけ祭り」が行われます。この祭りは江戸時代から続く伝統行事で、英彦山信仰が今なお地域に息づいたものです。
社殿の墨書きは、英彦山信仰の広がりを考える上では貴重な資料ですが、神社仏閣への落書きは文化財保護法違反に問われます。また建造物損壊罪や器物損壊罪、軽犯罪法違反などが成立する場合もありますので絶対に落書きはしないください。
〔文・西山紘二学芸員(商工観光振興課歴史文化財係)〕
問合せ:役場商工観光振興課歴史文化財係
【電話】82-1236
