くらし きままに神埼

◆「佐賀の役と神埼」
今から151年前に起きた佐賀の役は、一般的には旧士族の反乱として佐賀の乱と記されていますが、近年、この戦いは薩長閥を中心とした政治的な謀だったとも言われています。
ただ、以前から佐賀では乱ではなく佐賀の役とか佐賀戦争と呼ばれていました。
1874年(明治7年)2月22日の田手川を挟んでの攻防から始まる神埼での戦いですが、政府側の軍勢は脊振方面の山手からも押し寄せて来て脊振神社下宮もこのとき炎上しています。
特に激しかった神埼郡では、長崎街道の田手宿から神埼本宿、千代田の境原まで街道筋はこの戦いで大きな被害を被り、特に神埼宿は街並みがほぼ全て焼失しています。
政府軍の大久保利通は自ら佐賀に入り、陣頭指揮をとっていますが、その軍勢約5,300人。佐賀軍は1万人以上いたという事で、数からいえば圧倒的に佐賀軍が優勢のようですが、指揮系統や思想、考え方の違いから幾つかに分かれていて、団結力がなかったようです。
片や大久保率いる軍勢は、大坂、広島、小倉、熊本の鎮台兵からなる西洋式に訓練された精鋭部隊で、最新式武器を持ち情報力や機動力にも優れており、佐賀軍は佐賀方面へ街道を敗走していきました。
戦いは、2月23日から26日にかけての攻防が一番激しく、151年前の2月末は神埼の上空いっぱいに大火の黒煙が覆い、地上では平安の世から東肥前の経済の中心として栄えていた神埼宿の街並みが燃え続けていた事と思います。
数日にわたって戦乱と大火に見舞われ、逃げまどった神埼の住民たちにとっては、本当に大変な災難だった事でしょう。
2月28日に佐賀軍は降伏して佐賀の役は終わりましたが、江戸時代からの商家など大きな家並が全て焼失してしまった神埼宿に、このあと戦いの前と同じような建物が立ち並ぶことはなく、この戦いのダメージは本当に大きなものでした。

文化財観光案内専門員
執行 真知子