文化 第131回 温故知新 ~うと学だより~

■日露戦争と宇土(1)
今年は日露戦争終結から120年の節目の年です。明治38年(1905)9月、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ、約1年6か月に及んだ日露戦争が終結しました。今回と次回の「うと学だより」では、日露戦争と宇土との関わりを紹介します。

1 日露の戦局
明治28年(1895)に日清戦争が終結すると、日本とロシアは満州(まんしゅう)(現在の中国東北部)や朝鮮半島の支配をめぐって激しく対立しました。
明治37年2月、朝鮮半島や遼東(りょうとう)半島に停泊していたロシア軍艦を日本軍が攻撃し、日露戦争が始まりました。日本軍は多くの犠牲を出しながらも、ロシア艦隊の拠点・旅順要塞(りょじゅんようさい)を攻略したり、世界有数の強さを誇ったバルチック艦隊を破るなど戦況を有利に進め、日本側に有利な講和条約を結び、実質的に日本勝利に終わりました。

2 宇土の出征兵士
日露戦争は、多額の戦費に加え、国民の動員や負担のもとに遂行されました。日本各地から100万人以上が兵士として動員され、このうち日本軍の戦没者は8万人以上、負傷者は15万人以上とされます。
宇土出身の兵士たちは、九州南部出身の兵士で編成され、熊本を本拠とする第六師団に所属しました。宇土から何名の兵士が出征したのか不明ですが、おそらく数百名規模の兵士が宇土から大陸に渡り、このうち41名が戦死又は戦病死しました(宇土13名、網田8名、緑川7名、網津5名、花園4名、走潟2名、轟2名)(※1)。
彼らの戦死地は、日露戦争最初の本格的な戦闘である遼陽(りょうよう)会戦、ロシア軍の反撃によって始まった沙河(さか)会戦、日露戦争の趨勢(すうせい)を決めた旅順要塞戦などで、当時の新聞は戦死した時の状況を詳しく、そして劇的に報じました。
また、出征により働き手を失った家族には有志たちが金銭を扶助(ふじょ)したり、農作業を加勢したりして銃後の地域社会を支えるとともに、軍需品(ぐんじゅひん)や慰問袋(いもんぶくろ)(※2)をこぞって戦地に送りました。
※1 宇土郡市遺族連合会が作成した「戦没者名簿」では36名(宇土11名、網田7名、緑川7名、網津5名、花園4名、走潟2名、轟0名)。
※2兵士への手紙やお守り、日用品などの慰問品を入れた袋。

3 戦没者の葬儀
異国の戦場で亡くなった兵士に対しては、町や村を挙げて葬儀が行われ、多くの人々が参列して郷土の英雄に畏敬(いけい)の念と哀悼(あいとう)の意を捧(ささ)げました。
遼陽会戦の激戦のひとつ首山堡(しゅざんほ)争奪戦で戦死した緑川村新開出身の歩兵伍長・中山恒七(つねしち)の場合、遺骨が宇土に到着した翌日に緑川村尋常小学校で盛大に村葬が営まれました。葬儀には県知事代理以下二千人以上が参列し、各団体が寄贈した大小の旗が棺(ひつぎ)のまわりに立て並べられた様子などを新聞が詳しく報じています。

4 祝勝会
しめやかな葬儀の一方で、現地の戦況は連日国内に伝えられ、日本軍の奮闘ぶりや勝利のニュースに国民は大いに沸(わ)きました。
宇土でも局地戦勝利のたびに祝勝会が開催され、たとえば日露戦争における日本の勝利を決定づけた日本海海戦の大勝利が伝えられると、宇土町では「大海戦祝捷(しゅくしょう)会」が開催され、記念式典や子どもたちによる祝勝軍歌の合唱、夜の提灯(ちょうちん)行列など町全体がお祭りムードに包まれました。
日露戦争で宇土から戦地に出征した兵士たちの名前は、私たちの身近にある石碑に刻まれています。次回の「うと学だより」では市内に残る日露戦争の記念碑を紹介します。

参考文献
・『新宇土市史』(通史編 第3巻)
・『宇土の今昔百ものがたり』

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