くらし 第70回 キジカケル突撃レポート! ~太平橋をもっと知ろう編~
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- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県薩摩川内市
- 広報紙名 : 広報薩摩川内 第508号 12月通常版
■太平橋~架橋 150周年~
本市の市章にデザインされる川内川は、九州で2番目の長さを誇り、市内には多くの橋が架けられています。
その中でも、太平橋は特に歴史ある橋の一つです。2025(令和7)年1月、最初の架橋から150周年を迎えました。今回は、地域の交通と暮らしを支えてきた太平橋の歩みを深ボリします。
◆太平橋ってどんな橋?
太平橋は、北側の大小路町と南側の東開聞町や向田本町を結ぶ、長さ230mの道路架橋です。
また、それ以外に市内には上流側に天大橋ほか5つ、下流側には開戸橋ほか2つの橋が架かっています。
○現在の太平橋のプロフィール
・鋼橋
・架設年…1979(昭和54)年
・長さ…230m
・幅…21・5m
→太平橋は、何度も架け直されていて、現在で6代目なんだって!
○本市の川内川に架かる橋一覧
※詳しくは本紙をご覧ください。
◆太平橋の名前の由来は?
大小路町にある「泰平寺(太平寺)」と争いごとがなく平和である様子を示す「天下泰平」にあやかって名付けられたといわれています。
◆橋ができるまではどうやって生活していたの?
1875(明治8)年まで、川内川には橋は一つも架かっていませんでした。それまで、対岸を行き来する人々の足となっていたのが「渡し舟」です。
川内川の各所には渡し舟の発着所が設けられ、地域の暮らしを支えていました。左の写真は、川内川で最後まで運行されていた白浜の渡し舟です。
→太平橋のすぐ近くには、渡し舟が停船していた「渡唐口(ととんくち)」という場所があるよ!
◆季節の彩りとともに楽しむ太平橋
※詳しくは本紙をご覧ください。
→次のページでは、これまでの太平橋について紹介するよ!
■初代太平橋
橋齢(きょうれい)約2年
1875(明治8)年、大工・阿蘇鉄矢(あそてつや)の設計により、川内川に初めての橋が架けられました。それが、木造の初代太平橋です。工費は4934円、約2カ月半で完成しました。
橋の完成により、人々は対岸へ歩いて渡れるようになり、地域の物流や交流が大きく発展しました。
しかし架橋から2年後に起こった西南戦争で、薩軍(西郷隆盛の軍)の手によって焼け落ちました。
◆近くには初代太平橋架橋碑も!
太平橋ポケットパーク(東開聞町)には、初代太平橋架橋を記念した石碑が建てられています。石碑には、弾痕があり、西南戦争の様子を物語っています。
→二代目の太平橋は、着工、竣工ともに不明なんだって!川に流されてなくなったといわれているよ!
■三代目太平橋
橋齢約14年
三代目の太平橋は、県知事の許可を受けて1886(明治19)年に竣工した私設の有料木橋でした。工費は約8400円。
通行料は、一人2厘、馬一頭8厘を徴収していました。
1889(明治22)年に国道3号に編入したことから通行料を支払う必要がなくなりました。
なお、三代目まで木橋だったため、災害に強い橋にするため四代目に架け替えられました。
→写真(本紙参照)は、三代目から四代目へ架け替えられるときの写真で、とても貴重なものなんだって!手前が三代目、奥のアーチ型の橋が四代目だよ!
■四代目太平橋
橋齢約53年
四代目の太平橋は、鉄橋(三連アーチ型吊橋)で1900(明治33)年に竣工しました。イギリスのテムズ川に架設するために用意されていた資材が、水深などの関係で使用不可となったため、一括購入し転用しました。総工費は20万円、長さ207m、幅11・2m、アーチの高さ9mでした。
路面に木材が使われていたため、車両の通行が増えるにつれて、通行に支障をきたすようになったことから五代目の橋へと改修されました。
→四代目は、川内のシンボルとされていて、レンガ色の「虹の架け橋」として地域住民に親しまれていたんだって!
■五代目太平橋
橋齢約26年
五代目の太平橋は、強度の高い鉄で造られた鋼橋で1951(昭和26)年に竣工しました。
総工費は1億3000万円、全長224m、幅11mで、一車線でした。
しかし、交通量の急激な増加に対処するため、1979(昭和54)年に現在の六代目にバトンタッチしました。
→太平橋は、交通の要として架け替えられてきたんだね!
◆初代太平橋を架けた阿蘇鉄矢ってどんな人?
阿蘇鉄矢は、1801(享和元)年、平佐町に生まれました。幼い頃から手先が器用で、「神童」と呼ばれるほどだったと伝えられています。
30代の頃には薩摩藩の大工頭に起用され、藩内のさまざまな大規模工事に携わり、活躍しました。
特に、1854(安政元)年に起こった安政の大地震では、江戸城・薩摩藩高輪邸が大きな被害を受けました。鉄矢は大工を率いて江戸へ向かい、他藩に先駆けて修復工事を完了。その技術力と迅速な対応が江戸中で評判となりました。
そんな鉄矢が初代太平橋の架橋を任されたのは、73歳のとき。すでに大工を引退していましたが、要請を受け、約2万4000人の協力のもと、わずか2カ月半で橋を完成させました。
◆「泰平寺」の住職羽坂(うさか)さんにお話を聞いてみました
○太平橋にどんな印象を持っていますか?
福岡から薩摩川内市に来たとき、「太平橋」という名前を聞いてこの街にぴったりだと感じました。
普段は買い物や移動のときに何気なく渡る橋。しかし、その「何気なさ」が、名前の由来である「天下泰平」を表していると思います。太平橋は、平和な日常を静かに支えてくれる存在だと感じています。
○太平橋に関する印象的な姿や人々の思い出はありますか?
高齢の方にお話を伺うと、皆さんが口をそろえて語ってくれるのが、赤い四代目の太平橋のことです。子どもの頃、その橋を「怖かった」と感じたそうです。
理由は、50年も架けられていたため老朽化が進み、橋に穴が空いていたからだといいます。当時から太平橋はまちのシンボルであり、誰もが通る橋でした。
みんなが同じ記憶を持っていることに、改めてこの橋が人々の暮らしに深く関わっていたことを感じました。
また、太平橋架橋碑についても印象的です。記念碑の裏には「太平(平和)」を願う文章が刻まれています。しかし、その部分には大きな弾痕が残っており、驚くことに、弾痕は「太平」の文字を避けています。
戦火を越えても穏やかな暮らしが守られたことを示しているように感じます。
○これからの太平橋や地域がどんな風になっていってほしいですか?
これまで太平橋は、人々の暮らしのために何度も架け直され、大切にされてきました。これからも、もっと多くの人が集まり、目を向けてほしい橋だと思います。
そして、この橋の歴史や思いを語り継いでいってほしいと願っています。
→太平橋は、時代の移り変わりや地域の人々の暮らしとともに姿を変えながら、生活を支えてきたんだね。
151年目も、地域の大切な交通の要として活躍していくよ!
