文化 【郷土史への扉】大きな水の流れ

水は、生き物の生活に欠かせないものです。その流れは、多すぎると住む場所を破壊し、まったく無くなると作物の生育や飲み水に影響します。今年の夏はそんな水の流れが私たちの生活にも影響を及ぼしました。国分平野の航空写真を見ると、市街地の真ん中を田んぼが斜めに横切ります。実はかつて大きな川が流れていた跡です。

■さまざまな名を持つ川
市の中心部を流れる天降川は、湧水町の国見岳南麓(なんろく)に発し、市内を縦断するように南北に流れる二級河川です。天降川の名は、昭和16(1941)年に当時の牧園町長が河川名変更を知事に請願したことにより正式名称になりましたが、それ以前は「広瀬川」「大津川」「金山川」「新川」と場所や時代によってさまざまな名前で呼ばれていました。
江戸時代の初めまでは、現在の参宮橋付近から大きく南東へ蛇行し、霧島市役所方向に流れていました。国分の北東部を流れる手籠(てご)川も、今の流れとは異なり、現在の国分中央高校付近を流れ、市役所付近で天降川と合流し、そのまま国分福島と上小川の間を抜けて錦江湾へと流れ込みます。(絵図参照)
堤防がない頃は(※)氾濫原が非常に広く、雨のたびに水が広範囲にあふれる暴れ川であり、流域が非常に広かったことから「広瀬川」と呼ばれたのだと考えています。国分湊にある長野神社は、もともとは国分清水の牟田にあり、鎌倉時代の建長年間(1249~1256年)の河川の氾濫によって流され、現在地に移動したといわれています。
湊という地名も、大きな川が流れていたことを示す地名です。国分中央六丁目付近には「唐人町」という地名が残り、琉球や中国との交易のために多くの船が川をさかのぼっていた光景が浮かびます。多くの船や人が集まることから、大きい津(=港)と考えられたのか、現在の参宮橋から下流部分を「大津川」と呼んでいました。

■川の流れを変える
大雨のたびに氾濫する川は、家や田畑を押し流し、周りで暮らす人々の生活を脅かしました。寛文元(1661)年、水害で困っていることを知った薩摩藩主島津光久により、川の流れを変える「川筋直し」が命じられます。ちょうどこの頃は、山ケ野・永野金山が見つかったことで薩摩藩が大きな財源と土木技術を手に入れた時期であり、山ケ野で採れた金が川筋直しの工事費用としても使用されました。ちなみに、天降川の上流部は山ケ野を流れるため、「金山川」と呼ばれていました。
隼人町住吉や国分野口辺りは台地(大野原台地)になっていますが、そこに新たな川を掘り、国分府中の台地も掘って手籠川の流れを変え、堤防を作りました。大きく川の流れを変える難工事は約4年かかり、同6(1666)年に完成し、現在の天降川の流れとなります。新しく作られた川ということで、名も「新川」と呼ばれるようになります。
一方、もともと川の流れていた場所は、水が無くなると広大な水田地帯となり、当時の人々の生活を潤していきました。

■郷土の歴史を生かす
水の流れが変わることで、氾濫も少なくなり、作物もたくさん取れ、生活しやすくなります。しかし、もともと川だった場所は、地形的に低くなるため、大雨の際などには水がたまりやすくなります。ハザードマップを見ると、昔の川の形がくっきりと浮かび上がります。今年の8月の大雨では、市内各所が冠水しました。昔の川の流れを知っていると、どの道を通れば水を避けることができるかなども予想ができます。歴史の流れはよく川の流れのように例えられますが、郷土の歴史を知ることは防災や災害時の行動にもつながるのです。
(文責=小水流)

(※)河川が氾濫したときに水が広がる低地部分。