文化 資料館だより(542号)

■西南戦争と種子島
1877年(明治10年)、西郷隆盛率いる薩摩士族と明治新政府が戦った西南戦争に関する種子島私学校党の従軍について、森 友和編「種子島私学校同盟(種子島銃最後の実戦」、西之表市史、中種子町郷土誌、南種子町茎永「私学校(第七支校)日誌」に記録されています。
明治維新の近代化が進む混沌とした中で、種子島私学校党が本土の決起に呼応し、士族411人が従軍、108人戦死、136人負傷しました。
この戦争で使われた鉄砲は、後装式スナイドル銃、前装式エンフィールド銃、種子島製前装式ミニヘル銃で、西之表市鉄砲館に展示されています。速射性の高いスナイドル銃を大量に所持していた明治新政府軍が勝利を決定付けたといわれています。中種子町の歴史民俗資料館には、西南戦争に使用された小銃弾(鉛製)が展示されています。島内の西南戦争戦没者招魂碑は、西之表市東町玉川、中種子町野間神社境内(風化して判読が難しいので、下野敏見著「石の文化誌種子島碑文集」を参照してください。)、南種子町茎永の赤米館裏の西南戦争出征戦没者招魂碑の杜公園の三カ所に建立されています。
また、西之表市出身の書家川口雪蓬が、沖永良部島に流刑中の西郷隆盛に書を指導したという興味深い資料が鉄砲館に展示されています。
最大の激戦地熊本市植木町の田原坂は、左右竹藪のダラダラ坂で、その先に田んぼが広がる静かな所です。平家の落人で有名な五家荘(言葉が種子島弁に似ていたという)、椎葉村、三太郎峠を越えるなど9か月間の壮絶な行軍の戦いの中で設立された日本赤十字社の前身である博愛社は、敵味方なく負傷した兵士を救護したと記録されています。
薩摩藩郷中教育で鍛えられた士族戦没者の墓は、盟主西郷隆盛の墓と共に鹿児島市南洲神社墓地に建てられています。

中種子町文化財保護審議委員
鎌田 秀一郎