- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道新篠津村
- 広報紙名 : ふれあいの里 新しのつ 令和7年3月号
■日々挑戦、日々勉強
みのり
佐藤 勝實さん(86)
◆毎日必死に
私は昭和13年、7人兄弟の長男、道東の端野村(現:北見市)で生まれました。今は周りのまちと合併して北見市に。道内で一番大きい市町村になりましたね。北見は山あり海ありで自然豊か、今も昔も良いところですよ。当時、端野村で私が住んでいたところはまさに「ポツンと一軒家」。市街には一山超える必要がありましたし、昔ですから山道は言うまでもなく、一般道すら舗装されてませんよ。そんな端野村に、私は二十歳過ぎまで暮らしました。
終戦が昭和20年ですから、幼少期は戦争真っただ中。5歳くらいの時に父は徴兵されまして、半紙と柳の木で作った、お手製の国旗を振ってお見送りしたのを覚えてますよ。当時は何しているのか、父がどこへ行くのかなんて、何もわかりません。父が居なくなり親戚を頼りましたが、とにかく戦時下は食べ物がない。弟と一緒に沢でザリガニを取って食べたり、木の実を食べたり、生きるのに必死でした。
極端に貧しい時期も父が無事帰ってきたことで終わり、カボチャや馬鈴薯、ハッカなどの畑作を始めました。なんせ父は帰還して体がボロボロでしたから、長男の私が家族に頼られていましたよ。父が「勝實は中学校できちんと勉強して、そのあと農業をやりなさい」というものですから、卒業後は農業と出稼ぎの林業など、とにかく働いて稼ぎました。昔も今もお金をもらえることは嬉しいですよ(笑)それでも二十歳を過ぎると、この山奥で農業を続けて家族は安泰なのかと不安になりました。
◆将来への不安と期待
昭和36年の春、私は市街にあった知り合いの農家へ田植えの手伝いに行きました。そこで偶然にも「うちの弟が新篠津に入植して農家をしているよ」という話を聞き、私は居ても立ってもいられない。時間を作り、早朝からバイクを走らせ、道に迷いながら新篠津まで10時間。到着直後は、土の泥炭具合に驚きましたが「農業に適した場所はこれ以上ない」と期待に胸を膨らませたのを覚えてますよ。当時は街灯も少ないですから、クマの遭遇に怯えながらも、その日の深夜に帰宅。結局、この年の秋頃、家族とともに第5の西高倉へ入植しました。
結婚は昭和38年。妻も同じ故郷出身でお見合いでした。これまた9時間かけて、バイクで妻と一緒に里帰りしたこともあったね。いい思い出です。でも、妻には苦労を掛けましたよ。なんせ当時、泥炭地での米作りは初心者で、水害やら冷害やら、仕舞に雹が降ったりと散々でした。それでも何とかしなければと、第5の武田に農地を拡大しましたが、軌道に乗りはじめたと思った矢先、昭和45年に国から米の減反政策。兄弟を養う必要もありましたから、本当に参った。悩みに悩みましたが思い切って、全ての農地を転作。ここから私の玉ねぎづくりが始まりました。
◆兎にも角にも
それから休みなく必死に働きましたよ。若い頃は地元や当別の山で林業もしました。色々ありましたが沢山の人にお世話になり、設立した会社も順調でした。新しいこと、好きなことに沢山挑戦し、道内外に自分の作った玉ねぎを届けることもでき、嬉しいことも辛いことも家族と仲間と共有してきました。
71歳の時に離農し、みのり自治会に来てもう20年経ちましたね。今は毎日できるだけ散歩して、100歳体操の会にお邪魔したり、家庭菜園したり、スマホ教室に参加してみたり、今も昔も変わらず、何事もとりあえずやってみる。ほらだって、体動かせないのに口だけ動かせるなんて、そんな人は嫌でしょう?(笑)こんな冗談言ってるとお話が長くなりますね。それでは最後に。「農業やるなら新篠津!」これからも農業で村を盛り上げましょう。ありがとうございました。