- 発行日 :
- 自治体名 : 宮城県多賀城市
- 広報紙名 : 広報多賀城 令和7年11月号
■収蔵庫の宝物 職員のイチオシ資料紹介
□小倉百人一首カルタ
市内八幡の旧家に所蔵されていた資料です。高さ約20センチメートルの木箱に入っており、読み札(絵札)、取り札それぞれ100枚が欠けることなく揃っていました。木箱の扉は観音開きで、満月と梅花が木象嵌(もくぞうがん)で表現され、春の夜の風情を伝える優雅な作りとなっています。大正時代の終わりから昭和の初め頃に使われていたと推測されます。
小倉百人一首は鎌倉時代前期の歌人、藤原定家(ふじわらのさだいえ)による秀歌選で、飛鳥時代の天智天皇(てんじてんのう)から定家の時代の順徳天皇(じゅんとくてんのう)まで、約500年にわたる100人の秀歌が選ばれています。その成立には宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)という鎌倉御家人が深く関わっていました。頼綱は幕府から謀反の疑いをかけられたことから出家し、京都に移り住みました。ここで定家と親交を結び、小倉山麓(京都市嵯峨野)にある自分の山荘の襖(ふすま)を飾る色紙を定家に依頼しました。そこに記された和歌が小倉百人一首の原型となったと言われています。
これらの和歌が江戸時代にカルタと結びつき公家の間に広まり、上の句と下の句を読み札と取り札とに分け、札を取り合うという遊び方が生まれて庶民にも浸透していきました。やがて正月の風物詩とされるまでになり、百人一首は多くの人々にとって身近な存在となっていきます。
市内にある歌枕「末の松山」「沖の石」も百人一首に選ばれた清原元輔(きよはらのもとすけ)、二条院讃岐(にじょういんさぬき)の和歌に詠まれたことにより著名な歌枕となり、現在に至っています。
※紹介した資料は、11月末まで埋蔵文化財調査センター展示室で見ることができます。
問合せ:埋蔵文化財調査センター
【電話】368-0134
