くらし 【出番です】家族の応援がなければできなかった

■徳永希和子(とくなが きわこ)さん(遠)
女性で県内初 元宮城県野球連盟公認審判、町スポーツ推進委員

審判になったのは38年前です。子どもの野球にはまって、いつも応援に行っていたんですが、子どもが応援されるのを恥ずかしがり、じゃあ審判だったら子どもの心も変わるかなと思い、目指すことにしたんです。
でも、審判になるまでは結構かかりましたね。座布団をベースに見立てて、何度も何度も練習しました。球場では、ボールが飛んだら同時に走って、見る位置や角度、ベースの場合は一呼吸おいて落ち着いて判定するとか、塩釜審判部の皆さんにいろいろと教えていただきました。
きわどい判定の時は、今でこそ映像判定がありますが、その頃は、ありませんからね。今のはセーフではないかと抗議された時もありました。
私は、県内女性初で珍しかったことや髪を短くして、帽子をかぶっていたので、男性にみられることの方が多かったんです。声を聞いて、初めて女性だと気づかれ、びっくりされた時もありました。当時は、塩釜地区の審判が30人くらいで、県内だと何百人といたと思いますが、その後もおそらく女性は私一人だったと思います。今は、いるかもしれませんね。
あの頃は、子どもから社会人までの試合の審判をしました。野球チームも多かったんですが、だんだん子どもの数も減り、会社関係の野球チームも減って、今は審判する機会が中体連や新人戦、河北杯くらいなんだそうです。寂しいですね。
私は、ホームランを打ったとかよりも、1-0とか試合が拮抗しているときのほうが見応えを感じます。この監督さんならスクイズしてくるかなぁとか、こういうサインを出しているから、こんな風に来るかなとか、試合を読むんです。
当時の仙台育英学園高校の竹田監督は、「ただ打っただけではだめなんだ。その1点を取るのが大変、取るためには小細工も必要なんだ。バントというのはすごいんだぞ。」とおっしゃっていました。

◆大変だと思ったことはなかったですね

早朝の試合もありましたが、今思うと若かったからできたのかな。何よりも夫の理解があったからですね。
当時は、ガソリンスタンドに勤めながら審判をして、バレーボールもしていて土日もありませんでしたが、大変だと思ったことはなかったですね。料理も大好きで、どんなに朝が早くても手作りでした。当時、生まれ変わったら古民家で料理を出したいと思っていたくらいです。
私は、だらだらやるのがダメなんです。野球は野球、仕事は仕事、料理は料理と都度、気持ちを切り替えていました。
審判を辞めたのは18年前です。その理由は、夫の会社が忙しくなって、それまで夫にたくさんの応援をしてもらっていたので、今度は夫のために一生懸命になろうと思ったからです。
野球を通して、子どもからも周りの人からもたくさん教えられ、エネルギーをもらいました。仕事にもプラスになりました。それが今に生きています。スポーツ推進委員を25年務めさせていただいているのも野球のおかげだと思っています。
今、子どもから、「お母さん、歩けるうちに一緒にゴルフをしよう」と言われています。いつか、家族で回れたらいいですね。
審判は、家族の応援がなければできなかったし、そのきっかけを作ってくれた子どもたち、夫に感謝、皆さんに感謝ですね。今でも人のつながりが広がり続けています。
もし生まれ変わったら、また子育てしたいなぁ。