文化 れきみんコラム

■町村合併あれこれ 沢石村
三春藩には82の村があったとされます。しかし、これらの村から今の三春町ができたわけではなく、岩江村は旧守山藩領から、沢石村を構成した富沢村などは、三春藩領から分知された五千石領の村からと、いくつかの母体がありました。
明治時代に入ると、新たな行政区や学区を編成するため、制度はくるくる変わりました。明治初年には、町や村の代わりに大区・小区制が敷かれ、明治11年の郡区町村編制法では町村の名称が復活します。明治22年実施の市町村制下では、町村合併が強行され、全国の町村が大幅に減りました。これは、国の委任事務を行える地方公共団体の成立を目指したもので、自由民権運動で訴えられた地方自治や民会という考えからすると、十分とはいえないものでした。
明治6年に磐前県大4大区小12区とされたのは、熊耳・南成田・北成田・富沢・荒和田・実沢・青石・門鹿・石森・すくも田・笹山の11村で、7年には御祭や七草木も加えた小7区となります。明治19年に青石村・実沢村・富沢村が成立、22年市町村制実施により、2村の「沢」と青石の「石」から命名された、沢石村となりました。
写真は、明治23年3月の沢石村会議事録です。最初に「明治23年3月10日実沢尋常高等小学校内を仮議場と定め」という一文があり、22年の合併で一度、実沢村字楢梨に仮役場を設け、明治25年に新しく役場を建設したという経緯からも、この頃まで、まだ暫定的な運用がされていた状況がうかがえます。明治33年の県の巡視では、沢石村は働きぶりも勉励、村会は常に平穏で議事録はよく整理されていると評価されています。