文化 れきみんコラム

■町村合併あれこれ 三春町
明治以前の文書などを見て、「三春町村」という表記に驚いたことがある方もいらっしゃると思います。(1)として掲載したのは明治12年にまとめられた三春町内の神社明細なのですが、よく見ると「三春町村」と書かれています。(2)の文書を見ていただくと、こちらは天保15(弘化元)年のものなのに、「三春町」と記載されています。三春町史(2巻)を見ると、田村家が去って蒲生家が支配した会津領時代は「三春村」とし、その後いつの間にか「三春町」あるいは「三春町村」と書かれるようになり、享保19(1734)年には、「三春町村」と村をつけた標記を禁止するのですが、それ以降も、どちらの記載もされていたようです。
明治以降の「三春町村」の記載に関しては、明治時代に入ってすぐ、町村の名称を廃止し、各地区を大区・小区とするという制度が施行され、その際、すべての小行政区の名称に「村」がつけられたため、「三春町村」が復活した、ということができます。明治13年12月、三春町村は正式に「三春町」へと改称されています。
三春町は、どことも合併なしと町史などではされていますが、明治40年頃に編纂された三春郷土史では、明治24年に中郷村分の込木の一部を編入し、沼ノ倉の一部を中妻村・中郷村へ組み替えたことが記録されています。明治31年の県の巡視では、税負担が軽い方ではないが、納められないほどではないだろう、というようなことが書かれており、明治初め、地租(固定資産税)が高額で、三春の人々が驚いたという話を裏付けているように思われます。