- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県古河市
- 広報紙名 : 広報古河 2025年10月号No.241
◆太閤検地とお米のはなし
令和の米騒動、この状況を鑑み今月号は古河のお米を取り巻くおはなしを。
「石高制(こくだかせい)」、これは日本近世史を理解する上で重要な用語です。たとえば、古河藩の石高16万石は領地から得られる生産力を米の収穫量に換算した表示で、石高制とは、そのような基準をもとに組み立てられた体制を示すものです。「石(こく)」とは容量の単位であり、1石=10斗(と)=100升(しょう)=1000合(ごう)。1石を重量に換算すると、米1升は約1.5kg、1斗は15kg、1石は150kg。
現代人には想像しにくいことですが、戦国時代までの日本には全国統一の度量衡(どりょうこう)が存在しませんでした。ものの長さや体積、重さ等の基準が地域ごとに異なるため、相違する長さの1尺が各所で使われて土地の面積を一律に把握できない。また、体積も同様で、各地で多様な大きさの枡(ます)を用いるために、量を異にする1合が出回るありさまでした。
そうした状況は、天下人豊臣秀吉の登場により、いわゆる「太閤検地」が実施され急変します。太閤検地では、全国一律の物差し(検地尺(けんちじゃく))や共通基準である「京枡」の採用を義務付け、村ごとの境(さかい)を定めて耕作地一筆ごとに測量を行い、それぞれの田畑の地味(ちみ)に応じて上・中・下のような等級を与え、その生産力を石高によって表示、それぞれ名請人(なうけにん)(その土地の耕作者)の名前を記す帳簿を作成しました。太閤検地が画期となり、領主は、村単位の生産力を米の収穫量に置き換えて把握、いわば課税台帳を得ることになります。
ところで、天正18(1590)年7月、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、関東における最大の政治的権威である古河公方(くぼう)足利氏の所領把握に努めます。秀吉は、古河公方の遺領を対象とする関東最初の太閤検地を北条氏滅亡直後の7月末からいち早く着手させました。5代公方足利義氏の没後、古河城に遺(のこ)されていた一人娘の足利氏女(うじひめ)は、鴻巣御所(こうのすごしょ)に移された後、同年9月、この検地をもとに行われた知行割(ちぎょうわり)により、御所周辺に堪忍分(ぶん)として332石余りの所領が与えられています。豊臣秀吉も一目置かざるを得なかった古河公方の権威が垣間見られると言っても過言ではありません。
太閤検地のみならず、以後の検地では「石盛(こくもり)」という田畑屋敷の法定見積生産高が定められました。それは、上・中・下のように区分された田畑等の生産力をそれぞれ米の収量に置き換えた数値で、この「下総国古河御検地帳」の石盛は、上田1反(たん)=1石、中田1反=8斗、下田1反=6斗、上畑1反=6斗、中畑1反=4斗5升、下畑=3斗と算出することができます。この検地帳の石盛をもとに16世紀末の見積生産高を算出すると、上田・中田・下田の平均収量は1反当たり8斗、つまり古河における16世紀末の平均生産見込み高は8斗=120kgと計上されていたことが分かるでしょう。
さて、農林水産省によると、昨年度における10a(アール)当たりの米の収量は540kgとのこと。10aは尺貫法の面積1反と等しく、1反は10畝(せ)、1畝は30歩(ぶ)(坪)で、10反=1町=3000歩(坪)。田1反から収穫される米540kgを石高で表記するならば3石6斗、太閤検地による古河の平均生産高8斗(120kg)と比較してその生産力に大きな差があります。
その後の江戸時代は、油粕(あぶらかす)(アブラナの絞り粕)や干鰯(ほしか)(乾燥鰯の魚肥)等の金肥(きんぴ)が流通し、農業技術も大幅に進歩した時代で、着実な生産力向上が図られました。「郷村の百姓共は、死なぬよう生きぬよう」と為政者に圧迫された江戸時代、多くの農民は豊作を願い、弛(たゆ)まぬ努力を続けているのです。
そうした農業従事者たちの不断に続く奔走と腐心こそが技術の革新と進歩を導き出したことは否めません。令和の米騒動、この先どうなるか想像もつきませんが、ひたすら豊作を願うばかりです。
古河歴史博物館学芸員 永用俊彦
