文化 ~東(ひがし)の飛鳥(あすか)・下野と飛鳥の歴史を紐解く~第5回「飛鳥と下毛野を結ぶ道」

しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館

■飛鳥の地までの道のり
今からおよそ1,350年前、日本という国のかたちが固まってきた頃、その舞台となった奈良県明日香村と下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)の本貫地とされる本市域は直線で約450km、道のりでは約600kmと離れています。
現代なら、自治医大駅から東京駅を経由して東海道新幹線を利用し、京都駅で近鉄特急(吉野行や橿原神宮行き)を利用すればおよそ4時間で行くことができます。また、自動車利用を想定して道のりを検索すると、第二東海自動車道経由で7時間46分(583km)、中央自動車道/西宮線経由で8時間3分(606km)、上信越道経由8時間52分(628km)と、おおよその時間と距離が表示されます。

■大和国(やまとのくに)と下野国(しもつけのくに)の往来
では飛鳥・奈良時代の人たちは、どのルートを通って大和国と下野国を往来していたのでしょう。この当時、現在の東北地方北部や北海道を除き、地方は七道(南海道・西海道・山陰道・山陽道・東海道・北陸道・東山道)に区分され、下野国は近江国(おうみのくに)(滋賀県)・美濃国(みののくに)(岐阜県南部)・飛騨国(ひだのくに)(岐阜県北部)・信濃国(しなののくに)(長野県)・上野国(こうずけのくに)(群馬県)・下野国(栃木県)・陸奥国(むつのくに)(福島県・宮城県・岩手県)・出羽国(でわのくに)(山形県・秋田県)の8国とともに東山道とされる地方行政区画に属しました。また、下野国は都からは5つの国を経由しないとたどり着けない「遠国(おんごく)」とされました。
さらに七つの行政区画の名前が付いた、都と各地方の国府を結ぶ道路(官道(かんどう))が敷設され、下野国を通過する官道は東山道と呼ばれました。現在、東山道と推定される道路跡が県内では10数か所、群馬県や他地域などでも発掘調査で確認されています。これらの道路は基本的には直線を重視して敷設されており、時期にもよりますが最大幅12m(平安時代は細くなり6m程度)、両側に幅・深さ約1mの側溝を持つような立派な道路が造られました。
また、役所が管理したこの道路には、30里(江戸時代の里とは異なる距離の単位で約16km)ごとに駅家(うまや)が配置されました。この駅家には乗り換え用の馬が配置され、食事や宿泊地も提供されたことから、現在のサービスエリアのような使い方がされたと考えられています。しかし、このように行き届いたサービスが受けられたのは特定の重要な任務を与えられた役人だけで、一般庶民は官道を利用できなかったと考えられています。役人もその重要な役割を帯びていることを示すように、駅馬の使用許可を示す「駅鈴(えきれい)」というものを所持していました。

■納税と都までの道のり
では、庶民はこの道を歩かなかったのでしょうか?下毛野朝臣古麻呂が編さんに関わった大宝律令(たいほうりつりょう)によって、税(租・庸・調(そ・よう・ちょう))を規定に沿って納入することが定められていました。収税された税は地方行政の末端組織である郡衙(ぐんが)(郡の役所)を経由して国府(こくふ)(栃木市)に集められ、下野国の納付分を引いて残りを国税分として都の役所(藤原宮(ふじわらのみや)・平城宮(へいじょうきゅう))に届ける決まりでした。現在、奈良時代の記録は残っていませんが、平安時代にまとめられた『延喜式(えんぎしき)』によれば、都まで34日以内に到着、帰りは17日で帰着するよう定められ、成人男子(21~60歳)の4人のうち1人が選ばれて、税となる米や織物、地域の特産物などを背負って行きました。
現在の群馬県西部から長野県・岐阜県を通る東山道は高低差のある山道で、本市と淡墨桜のご縁で協定を結んでいる本巣市付近まで行くとほぼ平坦な道となり、「関ケ原の合戦」で有名な関ケ原(奈良時代には不破(ふわ)の関(せき)が置かれました)を通過し、琵琶湖東岸の米原市周辺から大津市周辺を南下して大和国に到達したと考えられます。