- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県下野市
- 広報紙名 : 広報しもつけ 令和7年9月号
■第6回 「東の飛鳥」青龍の由来(1)
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館
◇「東の飛鳥」は下野市?
最近、市内の各所や、市から届く通知や封筒などで「東の飛鳥下野市」というキャッチフレーズと青い龍のロゴマークを目にされた市民の方も多いと思います。
このキャッチフレーズについて、これまで何度か「何で下野市が東の飛鳥なの?」とお問い合わせいただいたことがあります。不思議なことに、お問い合わせいただいたすべての方が、本市にお住まいではありませんでした。県内でご質問いただいた方は大田原市や那珂川町在住の方々、県外は埼玉県、群馬県の方々でした。いずれの方も歴史に興味関心があり、「自分の住んでいる地域が本当の東の飛鳥である」と主張される方、あるいは群馬県高崎市・前橋市で、平成19年度から両市所有の文化財紹介事業を「東国千年の都」と命名して特別展示やイベントを開催していることから、その地域にお住まいの方々には「我が群馬県こそ東国の中心地であり、東の飛鳥は群馬県では?」というご指摘などいただきました。
それを受けご説明させていただく際の決め台詞として、「参議式部卿大将軍正四位下下毛野朝臣古麻呂(さんぎしきぶきょうだいしょうぐんしょうしいげしもけのあそんこまろ)」の名を挙げます。すると、「東の飛鳥」というキャッチフレーズについてご了解していただけます。時代劇で最後に「水戸光圀公であるぞ」と決め台詞を言うのと一緒で、古麻呂が藤原不比等(ふじわらのふひと)・粟田朝臣眞人(あわたのあそんまひと)とともに大宝律令(たいほうりつりょう)の選定メンバーの中心人物であることは、選定後すぐに皇族の方々や上級官僚へ新しい法律のレクチャーを行ったことからも理解することができます。701年の制定以降、現在の生活にも影響を残している大宝律令とは、果たしてどのようなものなのでしょう。
◇大宝律令制定までの道のり
大宝律令の制定の背景には686年の天武(てんむ)天皇の崩御以降、文武(もんむ)天皇へと続く皇嗣(こうし)(後継者)問題が深く関わっているという考え方があります。天武天皇が崩御されると、すぐに飛鳥淨御原宮(きよみはらのみや)(明日香村飛鳥)の南の庭に天皇・皇族の棺(ひつぎ)を埋葬の時まで安置しておく仮の御殿「殯宮(もがりのみや)」が造られ、そこでは約2年間、発哭(はっこく)(声を出して悲しみを表す)や誄(しのびごと)(生前の功績を讃える追悼)などの儀式が、陵墓(りょうぼ)にご遺体が埋葬されるまで続けて行われました。
この殯(もがり)の期間中は後継者不在の権力空白期となり、歴史上度々政変が起きています。この時も天武天皇の第三皇子の大津皇子(おおつのみこ)(後の持統(じとう)天皇の姉の子)が謀反を起こし死罪となります。この謀叛は皇太子草壁皇子(くさかべみこ)と、その母(皇后鸕野(うのの)皇女…後の持統天皇)がライバルとなる姉の子を追い落としたという謀略説もあります。このような中、28歳の草壁皇子の皇位継承が確実となりましたが、『日本書紀』689年4月条には突如、草壁皇子が逝去した記事を載せています。草壁皇子は病死だと想定されていますが、死因については記されていません。皇位継承者を失った皇后鸕野皇女は混乱を避けるためにそのまま国政を執ることとなり、690年の元日に持統天皇として即位します。
『日本書紀』はこの即位を持統四年としており、天武天皇の崩御以降およそ3年間皇位が空白であったことを示しています。この時期は後の平安時代、藤原政権下のように幼帝が即位し国政を執れるほど、天皇という地位は確立していなかったと考えられており、皇位の継承がいかに重要かを示しています。
689年6月、草壁皇子が即位し、若い天皇が円滑に国政の執行ができるように編さんされていた淨御原令(きよみはらりょう)が施行されます。
次回へつづく