- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県下野市
- 広報紙名 : 広報しもつけ 令和7年11月号
■第8回「東の飛鳥」青龍の由来(3)
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館
前回は天武天皇13(684)年に「八色(やくさ)の姓(かばね)」の導入と天武天皇14(685)年に四十八階の冠位制に基づく位階が導入され、現代と同様に勤務評定制度が始まり、官人たちの昇進や給与はこの評価で決められたことについて触れました。
◇挨拶(あいさつ)の仕方も変える
中央も地方も、公務に就く人たちの階級が見た目で分かるような制度が整えられていきます。現代も挨拶や会釈をしますが、この頃「難波(なにわ)朝廷の立礼(りつれい)」といわれる改正が行われました。改正以前は宮内で上級者に対して挨拶する場合、わざわざ床に跪(ひざまず)く決まりでしたが、唐や朝鮮半島諸国を真似て立礼に改正されました。聖徳太子のいた時代は、挨拶の時に跪いていたことでしょう。また、使用言語についても制度が改められました。このように官人たちを序列化し、地位や身分にふさわしい服装と振る舞いを強制することで、朝廷の秩序保持が進められたのです。
◇歴史を整える
天武天皇10(681)年に歴代天皇の系譜(けいふ)や事績を記した『帝紀』、神代(じんだい)に始まる倭国(わこく)の物語・説話を『旧辞』とした天皇の正当性に関する編さん作業が開始され、およそ40年後の養老4(720)年に『日本書紀』が完成します。
また、天武天皇は天武天皇5(676)年に新たな都(後の藤原宮)をつくるため、京域の選定に着手しますが、天武帝は完成を待たず薨去(こうきょ)されてしまいます。
天智天皇から天武天皇へ引き継がれた事業や、天武天皇が始めたが未完成の事業、さらに草壁皇子が早世したため中断しかかった飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編さんや藤原京の造営は、持統天皇によって完成されました。
単に「律令体制」や「律令制度」としてまとめられてしまう制度の背景には、新たな国づくりを目指した父・母・そして孫へと引き継がれる中で、さまざまな出来事がありました。飛鳥浄御原令は、12年後の701年、草壁皇子の子、持統天皇の孫の文武天皇の時に大宝律令として完成します。
◇鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)から持統天皇へ
父である天智天皇、さらに夫である天武帝から、律令体制の整備や都の造営を引き継いだ持統天皇(鸕野讃良皇女)はどのような人だったのでしょう。
乙巳(いっし)の変が起きた645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)を父に、蘇我入鹿(そがのいるか)の従兄弟の娘の子として生まれました。大化5(649)年には、父の中大兄皇子が母方の祖父の蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)を攻めて、自害に追い込んだ事件が起きています。斉明天皇3(657)年に13歳で叔父の大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)と結婚し、天智天皇元(662)年に父母を同じにする姉の大田皇女(おおたのひめみこ)も大海人皇子の妃となり、この姉妹は共に九州の筑紫国那大津(つくしのくになのおおつ)で皇子を出産します。鸕野讃良皇女が出産したのが後の草壁皇子、姉の大田皇女が生んだのが後の大津皇子です。では、なぜ彼女たちは九州で出産したのか。それは唐・新羅連合軍から百済国を救援するため、倭国側の最前線となる九州の港に赴いていた大海人皇子に姉妹揃って随行し、姉妹揃って前線で出産したためです。翌年、倭国側は白村江の海戦で大敗しますが、帰国した帰還兵たちの姿は、母となった鸕野讃良皇女の目にはどのように映ったのでしょう。
彼女が26歳となった671年には、古代における国内最大の内乱と言われる壬申の乱が起こり、叔父で夫である大海人皇子と異母姉弟の大友皇子が戦います。鸕野讃良皇女は草壁皇子と忍壁皇子(おさかべのみこ)を連れて、身を隠していた大和国吉野から美濃国へ向けて脱出するような体験をします。この乱に勝利した夫の大海人皇子は、天武天皇として即位し、鸕野讃良皇女は皇后となります。
次回へつづく
