くらし 後世に語り継ぐ 80年前の記録と記憶(2)

■(証言1)笹井の空襲
語り部…小川豊子さん

≪プロフィール≫
戦災の語り部の第一人者だった故今坂柳二氏から託された文献と伝え聞いた話を基に、地元のこどもたちへ戦争の悲惨さを伝え、生きることの大切さを語っている。

◇のどかな農村が戦火に包まれる
空襲があったのは、昭和20年5月25日の夜のことです。1機のB29爆撃機が数トンもの焼夷弾(しょういだん)を笹井の中心地に落としていきました。死者13名焼失家屋69軒罹災者346名、のどかな農村の笹井地区に、まれにみる大きな被害をもたらしました。
中心地から離れた所で暮らしていた姉たちは、ガタガタと全身が震え大人に縋(すが)っていたと言います。実際に罹災(りさい)した方たちから伝え聞いた話によると、空襲が始まった途端、稲妻のような光が見え、すさまじい音がすると同時に辺り一面に炎が燃え広がったそうです。周囲の家が燃える音や焼夷弾が炸裂する音、人々の悲鳴が入り混じり地獄のような光景だったと聞きました。それを物語るように、笹井地域の土壌を掘り起こすと、焼夷弾の残骸がいたるところから出てきました。

◇当時の様子を伝える「チューリップのパンツ」
空襲はたった一晩の出来事でしたが、多くの人の人生と心に深い傷を残しました。今坂氏が戦災のことを当事者と語り合う場を設けることができたのは、戦後33年も経ってからのこと。それまではつらくて語ることができなかったのだそうです。それでも、今坂氏は被災者や戦地に赴いた方から聞いた多くの体験談を活字に残してくれました。戦時中に生まれていなかった私が、笹井戦災の語り部をできているのもそのおかげです。また、私が語り部として使っている「チューリップのパンツ」という実話を基に作られた紙芝居があります。この話の登場人物である井原嘉代子ちゃんは、小学校4年生わずか10歳で焼夷弾の直撃を受けて亡くなりました。他に「火柱ものがたり」では、疎開していた孫6名が逃げ遅れ、玄関で重なり合って焼死していたという話も語ります。語る度に苦しく切ない気持ちになります。

◇「戦争を知らない世代」に伝えたいこと
現在、私は「語り部グループななこ会」で学び、いろいろな所で笹井戦災の話をしています。きっかけは8年前、今坂氏から笹井小学校での戦争体験授業に誘われたことです。その後、こどもの頃に戦災に遭ったという人から当時の話を聞く機会があり、地元である笹井に悲惨な戦災があったことを伝えていきたいと思うようになりました。「戦争を知らない世代」と言われている現代のこどもたちに、実際に戦争を体験された方の記憶や今坂氏から受け継いだ話を、色あせることなく語り継いでいかなければならないと思っています。また、80年前笹井にこのような戦災があったことを知らない多くの人たちにも、伝えていきたいです。
いつも語りの終わりには、現在世界中のどこかで笹井の空襲以上の爆撃に遭っている人たちがいることにも目を向けてほしいと話します。現在の平和で豊かな暮らしに感謝すること、友達や周りの人と対話すること、相手を認めることを忘れないで、日々の生活を楽しんで送ってほしいと伝えています。

■(証言2)広島の原子爆弾
語り部…中島寿々江さん

≪プロフィール≫
昭和9年1月26日生まれ。原子爆弾(以下、原爆)投下当時11歳で広島市の自宅で被ばく。幸い命は取りとめたものの、祖母や叔母を失うとともに、本人も戦後数十年にわたってさまざまな後遺症に悩まされる。

◇今でも脳裏に焼き付く原爆の閃光
私がもともと住んでいたのは、爆心地から約1kmの場所にある大手町という地区でした。しかし、原爆が投下される一週間前、四国で働いていた両親と弟の職場が空襲で焼けてしまい、地元の広島へと戻ってきました。そのため、一緒に暮らすことができる家へと私も引っ越していました。爆心地から約3kmの位置にある大州という地区です。大州では爆心地から比較的距離があったことから、爆心地ほどの被害を受けず、私や両親も一命を取りとめることができました。しかし、大手町の家で暮らしていた祖母や叔母、その他にも近所に住んでいた方々は皆、帰らぬ人となりました。
爆心地と比べれば大きな被害は免れましたが、原爆が投下された瞬間は、私の元にもすさまじいエネルギーの光が降り注ぎました。それは毎日見ていた太陽の光とは比べものにならないほどのまぶしさで、今でも忘れたくても忘れることができません。その直後に強烈な音と衝撃に襲われ、家の窓ガラスなどは一瞬で吹き飛んでしまいました。
原爆の威力は本当に恐ろしいもので、爆心地から2kmの範囲はほぼ全てが焼失してしまいました。大手町にあった家についても、父が現場を確認しに行くことができたのが、投下後しばらく経ってから。記憶をたよりに家があった場所へなんとか辿り着いたものの、何がどこにあったかも判別できないほどに壊れていたそうです。この家に暮らしていた祖母は玄関付近で全身真っ黒になった状態で見つかりました。行方が分からなくなっていた叔母は、全身にひどい火傷を負った状態で助けを求めて歩き回った末に、8月18日に亡くなったと後から聞かされました。

◇長きにわたって体をむしばんだ放射線
原爆の恐ろしいところは投下後しばらく経ってからも、放射線が人体に大きな影響を与えることです。私も長い期間、放射線の後遺症に苦しみました。何より一番つらかったのが、しばらくこどもを授かることができなかったことです。最初に妊娠した時は、小頭症を患った状態のこどもが、亡くなった状態で産まれてきました。その後も三度死産を経験し、こどもは諦めなければならないかと覚悟していた矢先、結婚して9年目で突然元気なこどもを産むことができ、その後さらにもう一人子宝に恵まれました。どこかで「自分は長く生きられないんじゃないか」と思っていましたが、元気に生まれてきてくれたこどもたちから生きる気力をもらいました。

◇語り継いでいかなければならない核兵器の恐ろしさ
長く苦しまされてきた後遺症は60代を過ぎた頃から突然和らいでいき、気が付けば91歳まで元気に暮らすことができています。これも亡くなった方たちから、核兵器の恐ろしさを語り継いでいく使命を託されたということだと信じています。
戦時中、当時の科学の粋を集めて開発された原爆ですが、本来科学の力というものは人の暮らしを豊かにするためのものだと思います。今後どれだけ人間の力が進化していっても、誤った方向に使われることがないよう、それを担う若い世代の方たちには、広島で起こったことをこれからもずっと語り継いでいってもらいたいと思います。