- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県狭山市
- 広報紙名 : 広報さやま 2025年8月号
■(証言3)シベリア抑留
語り部…増田正博さん
≪プロフィール≫
父の増田正治(しょうじ)さんは、終戦後、約5年にわたって旧ソビエト連邦(以下、旧ソ連)の捕虜として抑留を経験。令和3年、正治さんが生前に当時の記憶を語った音声をまとめた書籍「我が生涯‐増田正治回顧談‐」を親族などと共同で発刊。
◇結婚したばかりの妻とお腹の子を残して
私の父、正治が現在の韓国へ向かう軍に入隊したのが昭和19年7月28日のことです。狭山からまさに出征しようとしていた時に、結婚して6カ月の母から妊娠2カ月(お腹の子が兄の正敏)であることを聞かされたそうです。当時、戦争へ行く際には「お国のため」という大義名分のもと、戦死して帰ってくることが名誉とされる雰囲気がありました。そうした中でも父は、母とお腹の子のために絶対に生きて帰ってくると、固く誓ったと聞いています。母とお腹の子、家族2人を残して戦地へ発つ時の父の心境を推察すると胸が詰まります。
その後、現在の韓国・大邱(テグ)で軍務にあたり、翌年8月15日に終戦を迎えました。現地にて武装解除され、すぐに日本へ帰還できると信じていたのですが、そうはならなかったようです。21年5月、捕虜となった多くの日本人を乗せた船は、旧ソ連のポシェト港へと到着し、そこからさらにシベリア鉄道に乗せられて、旧ソ連領の内陸部へ送られていきました。
◇過酷を極めた収容所での抑留生活
連れて行かれた先は、現在のウズベキスタンのタシケントやアングレンなどで、計10カ所以上の収容所を転々としたそうです。当時の生活は過酷を極めるもので、食事は1日350gの黒パンと、お湯に雑穀のカスのようなものを入れたスープだけ与えられていました。そのせいか、出征前は70kg近くあった体重は帰国時約半分程度になっており、外見だけでは知り合いに気付いてもらえないこともあったそうです。従事した作業も、特にアングレン収容所での石炭採掘は、過酷なものだったと聞かされています。石炭の粉塵だらけの中、口の中が真っ黒になるまで作業を行い、後にも先にもこれ程嫌だった仕事はないと語っていました。ただ、長い抑留生活の中には、時に心温まるエピソードもあったようで、ウズベキスタンの人たちと共同で行った運河建設では、食料の差し入れを受けたこともあったそうです。これは、少ない食料だけ与えられている中でも懸命に働く日本人労働者の姿に現地の人たちが感銘を受けたことによるものでした。国同士の争いで始まった抑留生活も、人対人で向き合ってみると、お互いに尊敬できる部分がたくさんあったのではないでしょうか。
収容所生活も4年半を過ぎた頃になると、父も帰還が叶うのはいつかいつかと、自分の番を待ちわびる日々だったそうです。しかし、帰還の許可を得るためには数十日間にわたる過酷な取り調べを受ける必要があり、収容所での行動から思想に至るまで細かく調査をされたと聞きました。なんとかこれを乗り切り昭和25年2月、ついに旧ソ連の極東ナホトカから帰国船「高砂丸」に乗って、京都の舞鶴港へ帰還を果たしました。
◇父が成し遂げた偉業を胸に
私は、父が帰国した後に生まれたのですが、生前、父は抑留生活の話はあまりしようとせず、経験したことについて深く知る機会もありませんでした。しかし、カセットテープ13巻に残された音声をもとに書籍を作成する中で、父が過酷な生活に耐え、残された家族や日本のために必死で生き抜いたことを知り、心の底から尊敬の念を抱いています。
今まさに父が抑留された旧ソ連の地域で戦争が行われていますが、やはり戦争からは憎しみや悲しみが生み出されるだけだと思います。一日でも早く、世界各地の戦争や紛争が終わり、平和な暮らしが戻ることを願っています。
■(証言4)インパール作戦
語り部…岡本泰裕さん
≪プロフィール≫
菅原二丁目自治会長。父の岡本幸雄さんが、昭和17年に南方戦線へ出征。現在のベトナムやタイを転戦した後、旧日本軍が決行した作戦の中でも特に過酷だったとされるインパール作戦に従軍。
(インパール作戦とは)
昭和19年3月から7月にかけて、実行された作戦。インドのインパールを制圧するために、ビルマ(現在のミャンマー)を起点に約9万人の兵士が投入された。山間部を超える行程だったことや途中で物資が尽きたこと、伝染病が蔓延(まんえん)したことから、約6万人もの死傷者が出たとされている。
◇予備士官学校を経て南方戦線へ
私の父は、大正8年に福岡県の飯塚市で生まれました。開戦後、予備士官学校(*)を卒業し、昭和17年に南方戦線へ出征しました。当初配置された現在のタイやベトナムは既に日本軍による統治下となっていたことから、そこまで激しい戦場ではなかったようです。現地で小さいトラを飼っていたことやバナナをたらふく食べたことなど、比較的明るい話として父から思い出を聞かされたこともありました。しかし、戦況が悪化し、徐々に米国や英国の軍に戦線を押し戻される状況下で立案されたインパール作戦に配置されたことで、父の状況も一変したようです。
(*)戦時中、将校となる人材が不足したため、臨時で下級将校を育成するために設立された学校
◇命からがら逃げきった撤退戦
戦後、父はインパール作戦についてだけは、ほとんど話そうとしませんでした。それだけ、思い出したくないつらい記憶だったのだと思います。過去に聞かせてもらった数少ない話の中からお伝えすると、父が所属していた第31師団はビルマを発ち、インパールの北側で英国軍の要地となっていたコヒマへ攻撃を仕掛けました。しかし、結果は多くの人に知られている通り、前線への補給が続かず総崩れ。撤退する道中はまさに地獄そのものだったそうです。
マラリアなどの伝染病と飢餓に苦しみながら、同時に迫撃砲の砲弾の破片で左腕を負傷しました。戦車のキャタピラ音に怯え、痛みに耐えながら戦闘機の機銃掃射から必死で逃げ回り、ぎりぎりで命をつないだとのことでした。また、父は予備少尉という隊の指揮を執る立場だったことから、道中で助けることができなかった多くの部下たちのことを思い、責任を重く感じていたようです。
◇恩賜のたばこの煙を見つめながら
父から聞いた話の中で最も印象に残っているエピソードがあります。コヒマへの総攻撃を直前に控えた日のこと、隊の将兵一人につき一本、菊の紋章が入った恩賜のたばこが支給されました。そのたばこをふかして煙を見つめながら「私の命はこのたばこ、たった一本分か」と思ったそうです。
時を経て、私自身も職場でのご縁で恩賜のたばこを頂く機会がありました。たばこに火を付けて煙を見つめながら、父の話を思い出し「お父さん、今私はあなたと同じたばこを吸っています。しかし、ここは砲弾もマラリアもない平和な場所です。これもあなたが生きて帰って産んでくれたからです」とまじまじと感じました。これからも父がつないでくれた命のバトンに感謝しながら生きていきたいと思います。