文化 新春対談2026 未来へつなぐ新たな銅像の2人 渋沢栄一翁と渋沢敬三先生を語る(2)

◆敬三先生が導いた東北の観光事業
小島市長:敬三先生とお父様のエピソードは何か聞いていますか。
杉本学長:父の観光事業の特徴は、敬三先生の理念の影響を強く受けていました。観光とは『光を観る』すなわち、その土地の素晴らしいもの、それが光で、それを観ることである、という敬三先生の言葉を実践しました。残念ながら現在は営業していませんが、三沢には小川原湖民俗博物館を、十和田湖には十和田科学博物館を造り、その後、修学旅行生たちが休める宿泊施設も造りました。普通だと先に宿泊施設を造ると思いますが、まず先に博物館を造るという発想は、敬三先生のアドバイスや教えなのでしょうね。
小島市長:私が知る限りでは、栄一翁の『論語と算盤』と同じで、金儲けよりも観光、光を観る、もっと言えば、最終的には人のためになる、人に喜んでもらえることが先だったのだと思います。普通だったら金儲けが先で、宿泊施設を造り、人を呼ぶにはどうしたらよいかと考えますよね。話を聞いていて、逆だなと思いました。先に博物館を造ったのは、間違いなく赤字ですよ。そこから始めたというのが、敬三先生の『論語と算盤』なのだと思いました。
杉本学長:そうですね。小川原湖民俗博物館などは、まさに敬三先生の考え方を具現化したものだと思っています。

◆渋沢愛が築いた『渋沢公園・祭魚洞庭園』
小島市長:敬三先生が国に物納した渋沢邸をお父様が20年以上、毎年のように大蔵省に払い下げの陳情をしていた姿を見ていましたか。
杉本学長:毎年というのは知りませんでした。取り壊しになりそうだという話が出て、ずっと陳情しているという話は聞いていました。
小島市長:私は、そこにもすごい渋沢愛を感じました。国の所有物に払い下げの陳情をするという、その情熱や熱意はどこから生まれたのかなと思います。
杉本学長:父は54年前、『この地に温泉は出ない』という常識に挑戦し、1000メートル掘って古牧温泉を掘り当てました。そして、敷地内に渋沢邸を移築し、栄一翁の銅像と敬三先生の銅像、渋沢神社を建立し、敬三先生の雅号である祭魚洞を付けた、広大な『渋沢公園・祭魚洞庭園』を整備しました。これは単なる恩返しではなく、渋沢公園・祭魚洞庭園を完成させ、敬三先生の理念を再現する空間をつくりたい、という父の情熱の結晶であると私は考えています。

《渋沢栄一の孫で渋沢家を継いだ偉人 渋沢敬三》
[1896(明治29)年~1963(昭和38)年]
渋沢敬三(雅号:祭魚洞)は、渋沢栄一の孫で、17歳の時に栄一から跡継ぎに指名され事業を継承しました。栄一が帰郷の際は同行し、旧渋沢邸『中の家』をたびたび訪れています。東京帝国大学卒業後は第一銀行などを経て、日本銀行総裁、大蔵大臣(現在の財務大臣)を務めました。戦後、財閥解体や財産税導入の際は、渋沢家は対象外だったにもかかわらず渋沢家も対象とし、また、三田綱町の邸宅を国に物納し、「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい。」と語ったといいます。一方で、民俗学などを研究して文化活動に尽力し、学術団体や研究者も支援したほか、『渋沢栄一伝記資料』(全68巻)を編纂(へんさん)・発行し、栄一の功績を広く世に伝えました。

〈成城大学〉
所在地:東京都世田谷区成城6-1-20
設立:1950年
学部:経済学部、文芸学部、法学部、社会イノベーション学部
緑豊かな世田谷のキャンパスでの少人数教育とゼミを中心に、個性を尊重する自由でアットホームな校風が魅力です。