- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県白岡市
- 広報紙名 : 広報しらおか 2025年5月号 No.690
■篠津宿の賑わいを支えたもの
近世の篠津は、日光街道粕壁宿と中山道鴻巣宿とを結ぶ脇往還の町場として栄えました。
中世段階で鬼窪氏により開発されていた篠津は、江戸初期、既に1,000石を超える村高があり、人や物資の集まりやすい環境でした。篠津は、文政10年(1827)の記録から、農間余業の業種は33種、従事者数は124人であったことが分かります。また、機織、綿布売買、紺屋などを含め、埼玉郡域の代表的産物である木綿に関する職業が上位を占めていたことが分かります。
商工業の発達により「読み書き算盤」の必要性が高まり、そのような折、黒浜村に生まれた大野雅山が篠津で開塾します。大野塾は近隣から塾生を受け入れ、近代の学制施行後は篠津学校へと受け続がれ、地域の教育を担いました。
篠津を拠点として紅花問屋を営んだ商家「篠川」は、元荒川から水路を引いた河岸場や紬蔵、紅花干場などを持つ大きな商家で、水運を利用し木綿の流通も差配していました。久伊豆神社の社殿彫刻や各耕地に残されている豪華な彫刻の5台の山車なども「篠川」の財力を背景に作られたものでした。
この彫刻を手掛けたのは、野州阿蘇郡から来た彫工達でした。「篠川」は、「立川音吉(芳)」という若い彫工を篠津に住まわせ、職人として一本立ちさせます。その音吉の孫「立川金禄」は、戦後、「軍鶏」を題材として日展入選22回を誇る彫刻家となりました。
篠津の宿の賑わいは篠津だけで成り立つものではありません。例えば、白岡村との境に位置する古刹興善寺や古くから近郷近在の信仰を集めてきた古社白岡八幡宮などの縁日、祭礼などの経済効果も大いに篠津の宿の賑わいを支えてきたといえます。
主要街道を結ぶ位置にあり、元荒川を使った水運にも恵まれた篠津の宿は、紅花問屋「篠川」の資金力に後押しされ、集まった人と物資が相乗効果をもたらしました。古代から連綿と続く人々の営みが、「河川」「流通」「交流」「学問」「芸術」などのキーワードをつむぎ、篠津の宿の賑わいを支えたのだということができましょう。
主な関連文化財群:篠津久伊豆神社本社殿(市指定)、篠津天王様の山車(5台・市指定)、篠津天王様の神輿(市指定)、篠津天王様、元禄15年庚申塔、興善寺の豆まき、円空作観音菩薩立像(市指定)、大野家文書、立川金禄の作品群、篠津浅間様の初午、菱沼渓齋翁墓碣銘、白岡八幡宮の馬寄せ、小久喜久伊豆神社とささら獅子舞(市指定)
問合せ:生涯学習課文化財保護担当
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