文化 【特集】2つの村の鎮守
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- 自治体名 : 埼玉県宮代町
- 広報紙名 : 広報みやしろ 令和7年5月号
写真(※表紙参照)は姫宮神社と身代神社。宮代町は昭和30年に2つの村が合併して誕生しました。「宮代」という名はこの2つの神社の名に由来しています。
■2つの村の鎮守 百間村と須賀村
宮代町は昭和30年に百間村と須賀村が合併して誕生しました。百間村の鎮守だった姫宮神社、須賀村の鎮守だった身代神社から名を一字ずつとって「宮代」という名が誕生しました。2つの神社は歴史が古く、創建にあたって、お姫様の伝説が残っているのが共通した特徴です。今月は、町制施行70周年を記念して2つの神社を紹介します。
◆姫宮神社
◇宮目姫の伝説と古墳
姫宮神社本殿の右奥にある八幡社は周囲より小高くなっており、近くでは埴輪も出土しています。このことから、姫宮神社のある場所は古墳だったと考えられています。
百年、千年前、この場所にどんな風景が広がり、どんな生活が営まれていたのだろう、と想いを巡らせると感慨深いものがあります。姫宮神社は、とても長い歴史をつむいでいます。
姫宮神社は延長5年(927年)編さんの「延喜式神名帳」にその名を見つけることができます。ここに「武蔵国埼玉郡宮目神社」という記述があります。これが姫宮神社のことではないか、といわれています。
神社の伝承では
桓武天皇の孫の宮目姫(みやめひめ)が京から下総国へ向かう途中、当地に立ち寄ったさいに、見事な紅葉に見とれているうちに病となって倒れて亡くなった。後日、ここを訪れた慈覚大師円仁(864年没)がこの話を聞いて、姫の霊をまつったのが姫宮神社のおこり。
といわれています。
宮代の魅力を発見し、伝えるための活動をしている「みやしろ市民ガイドクラブ」は今年2月に姫宮神社の見学会を開催しました。当日は神社の成田宮司から姫宮神社の歴史についての説明がありました。
「古墳があるような場所ですから昔から、水が出たら姫宮神社に逃げろ、と言われてきた。カスリーン台風の時は実際にそうでした」という成田宮司の話に参加者は聞き入ります。
ガイドクラブ代表の荒木さんは「神社やお寺は身近にありながらも、案外、その歴史は知られていないので、今後も見学会を続けていきたい」と話します。
◆身代神社
◇「身代わり」に救われた姫の伝説
身代神社は昭和40年代まで、のどかな田園風景の中にぽつんとある神社でした。その後、隣接地に学園台住宅地が造成され、日本工業大学が開校し、今では近くに商店も並ぶ場所になりました。
毎日、何人もの人が身代神社を訪れます。日々の散歩コースだったり、特別な想いを持って訪れたり、それぞれです。多くの人にとって、かけがえのない場所になっています。
身代神社の歴史はとても古く、仁治3年(1243年)に創建されたと伝えられています。
神社の伝承では、
ある武将が奥州に落ちのびるときに、武将の姫が追っ手に見つかりそうになった。その時に村人はコノシロという魚を焼いた。この魚は焼くと死体を焼いたような匂いがする。村人は「姫は死んだ」と言って追手を追い返した。
救われた姫は感謝して、この神社を祀った。これが身代(コノシロ)神社のおこり。
といわれています。
今回、身代神社は社殿を建て直しました。境内の整備も行い、うっそうとしていた雑木も剪定、伐採され、とても気持ちの良い空間に変わっています。駐車場も整備されています。
神社の改修は、令和4年からはじまりました。コロナ禍もあり、予定通りには進まなかったそうですが、氏子や地元の皆さんからの寄進もあり、昨年12月には改修が終わりました。
身代神社はすぐ隣にある身代池(おいてけ堀)とともに、今までにも増して、静かな落ち着いた、心安らげる場所になっています。
中心的な役割をになった建設委員会の皆さんは「歴史のある神社なのでぜひ足を運んで欲しい」と話します。
◆「宮代」の誕生
宮代町が合併したのは昭和30年。ここで紹介した2つの神社から1文字ずつをとって「宮代」という名前をつくりました。新町名については百間村、須賀村、両村でそれぞれ公募し、その中から5種類ずつ選んで合併協議会で決定しました。百間村では、宮代、笠原、宮戸、墨田、古川が、須賀村では新生、宮代、古川、宮戸、浦里が候補となり、合併協議会委員が無記名で投票し「宮代」に決まりました。
今回の記事作成にあたっては宮代町史 通史編、民俗編を参照しています。
本の詳細は郷土資料館HPから