文化 香取遺産(vol.229)

■落文(おとしぶみ)神社蹟(あと)
大倉の国道356号線から踏切を越えて、側高神社方面へ上り、東関東自動車道を越えた先に、ツツジやサツキに囲まれて、落文神社蹟は存在します。
その昔、鹿島から使いの鹿が文書の巻物をくわえて香取の神へと遣わされた際、猟師に追われ逃げるうちに文書を落としてしまい、責任を感じた鹿は苦しみ悶(もだ)え死んでしまいました。その後、里人たちがその霊をまつったのが、神社のいわれとされています。なお、文書は里人に拾われ、無事、香取神宮に届けられたとのことです。この文書を拾った場所であることが近在の小字(こあざ)「披露(ひろう)」の由来とされています。
このいわれにつき、香取神宮神官であり、国学者でもあった小林重規(しげのり)は、天保4(1834)年刊行の著書『香取志』において、「此説疑(ウタガヒ)あり」としています。しかし一方で、「鹿島神使(ミツカヒ)の鹿吾が神宮に来ル事今猶(なお)あり」ともしており、1~3年ごとに「鹿来りて神庭に膝折伏(ヒザオリフシ)後ニ瑞籬※を巡(メグ)る事三度(ミヨリ)にして去」という姿が昔から見られていることを述べています。
津宮の学者、久保木竹窓(ちくそう)が文政11(1828)年頃に著した『香取私記』によれば、かつては里人によってまつられ、11月17日に祭事も執り行われていた神社であったようですが、現在では同じ大倉地区の側高神社に合祀(ごうし)されており、神社跡には鳥居と嘉永7(1854)年奉納の手水鉢、「落書大神之社蹟」と書かれた石碑が残ります。石碑の裏には明治42(1909)年に合祀されたことが刻まれています。
落文神社蹟の鳥居は、令和元年の台風により倒れてしまいましたが、この度、令和7年7月2日に地元の有志の皆さんにより再建されました。
地域の伝承を伝え、今なお大切に守られている神社跡です。
※瑞籬…ずいり、みずがき。神社など神聖な場所の周囲にめぐらした垣

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