文化 ちょうなん歴史夜話

■長南開拓記(71)~「長生郡」の原型~
長生郡や長生郡市の「長生」という名称は、明治三十年(一八八九)の長柄郡と上埴生郡の合併によって誕生したものですが、この「長柄」「埴生」は古代の郡制に起源を持つ古い名称です。史料上の初出ですが、「長柄郡」は『万葉集』巻二〇の「長柄郡の上丁(かみつよほろ)若麻續部羊」が詠んだ歌で、この歌は奈良時代の天平勝宝七年(七五五)二月付けで所収された防人歌の一つです。一方、「埴生郡」は平安時代の一〇世紀前半の『延喜式』『和名類聚抄』です。ただし、これらはあくまで史料上の初出であって、両郡の創設時期を示している訳ではありません。
以前にも話しましたが、『日本書紀』の伊甚屯倉(いじみのみやけ)説話は「(伊甚屯倉が)今別れて郡となり、上総国に属す」と結んでいます。このことは、説話のストーリー自体の史実性は別として、『日本書紀』の編纂時においては、上総国に属する複数の郡が「伊甚屯倉の廃止・分割に由来する」ということが、共通認識であった事実を示しています。屯倉とはヤマト王権の直轄地ですが、大化の改新で廃止されており、このときに伊甚屯倉も廃止されたとみられます。伊甚(いじみ)は後に夷灊―夷隅(いすみ)と変遷したと考えられるので、夷灊郡は「伊甚屯倉を由来とする郡」と見てよいでしょう。そして上総国で夷灊郡と隣接するのは埴生郡、海上郡、畔蒜郡です。このうち海上郡は現在の市原市域、畔蒜郡は君津市域に相当し、夷灊郡との境は深い山々に隔てられています。一方、埴生郡とは水系こそ異なるものの、地形的に大きな隔たりはありません。また、近世~明治期の長柄郡は一宮を含んでいたため、夷隅郡と接していましたが、『延喜式』に「埴生郡一座玉前神社」とあるように、古代において一宮は埴生郡であり、当時の長柄郡は夷灊郡と接していなかったと思われます。しかし、埴生郡と長柄郡は同じ一宮川水系で、地勢も一体化していることから、『日本書紀』が完成した奈良時代初頭には、伊甚屯倉を由来とする「夷灊郡」「埴生郡」「長柄郡」という行政区分が成立していたのではないか、と推測できます。

坂本地区川島遺跡の発掘調査で見つかった奈良時代の竪穴住居跡。”坂本”は『和名類聚抄』に「埴生郡」の郷名として記載がある古い地名。

(町資料館 風間俊人)