- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県長南町
- 広報紙名 : 広報ちょうなん 令和7年3月号
■長南開拓記(73)~開拓は続く?~
長生地方と隣接する北総・山武・上総西部の各地方では、古墳時代後期~奈良・平安時代に継続して営まれる拠点集落跡が多く見つかっています。また、奈良時代に新たに形成された集落跡も見つかっており、拠点集落を核として地域の開拓が進んでいった様相が見て取れます。長生地方も同様な状況であったと予想はできますが、発掘調査例が極端に少なく、考古学的な成果として示すことはできません。とはいえ、拠点集落の候補はあります。
古墳時代でも取り上げた中原遺跡(茂原市猿袋)は、古砂丘上に広がる遺跡です。調査範囲からは古墳時代後期十六軒、奈良時代七軒、平安時代一軒の竪穴住居跡が見つかっています。この一帯は縄文時代に形成された古い砂丘であり、広い台地がない一宮川水系にあっては、比較的広く安定した土地と言えるでしょう。調査範囲が約一五〇〇平方メートルと狭く、広い砂丘面の一角に過ぎないことを考えると、発掘された遺構群は、古墳後期~奈良・平安時代と継続した集落跡の一角である可能性は十分にあり得るでしょう。ただし、この地域は七世紀に横穴墓が急増した地域とは離れており、周囲の丘陵にも横穴墓は多くはありません。しかし、『茂原市史資料編一』(二〇二三)によれば、すでに墳丘はほぼ消滅していますが、本来は古墳が多く見られたと言います。集落跡が見つかった場所が、海岸平野との接点であることを考えると、海岸平野への進出拠点としての性格を持っていたことも考えられるでしょう。
対して、七世紀に大規模横穴墓群が形成された茂原市長谷・山崎~長柄町千代丸・徳増・鴇谷・立鳥~長南町棚毛・又富・米満・千田にかけての地域は、明らかに内陸部の開拓を指向していると言えるでしょう。しかし、この地域には今泉遺跡(長南町今泉)や鴇谷久保向遺跡(長柄町鴇谷)のように、古墳後期の竪穴住居跡がまとまって発見される事例はあっても、奈良・平安時代の竪穴住居跡がまとまって発見される事例は、今のところなく、単独ないしは数軒の発見に留まっています。これが何を示すのか、次回さらに考えます。
芝原の根畑遺跡で出土した奈良時代の土師器杯。古墳時代は丸底杯が盛行していたが、奈良時代には平底杯が主流となる。これには器を台の上に置き、箸や匙を使って食べる、というような食事法の変化が関係するとも考えられている。
(町資料館 風間俊人)