文化 歴史資料館 連載三九七

■錣山
錣山(しころやま)とは現在の日本相撲協会の年寄名跡(としよりみょうせき)の一つです。初代の錣山はいつごろの力士か定かではありませんが、江戸中期から続く名で、江戸相撲会所の重役職は永らく歴代の錣山が務めていました。最近では、元関脇の寺尾(てらお)が引退し錣山親方を襲名、錣山部屋を創設していましたが、二〇二三年に亡くなり、そのあとを立田川(たつたがわ)親方(元小結豊真将)が継ぎ二十一代錣山となっています。
さて、実は江戸時代、勝山から錣山という名の相撲取りが出ているのです。勝山村の中山家の八次郎(はちじろう)という若者は、若くして江戸に出て、伊勢海(いせのうみ)村右衛門の門弟となり錣山八次郎という四股名(しこな)で活躍したそうです。中山家には錣山愛用の化粧まわしと寛政六年(一七九四)に伊勢海から受けた相撲證文(しょうもん)が残されていました。
「證状(しょうじょう)
一、房州平郡勝山村住人錣山八次郎儀(ぼうしゅうへいごおりかつやまむらじゅうにんしころやまはちじろうぎ)、此度相撲古実之門弟(こたびすもうこじつのもんてい)に召加(めしくわ)え候處(そうろうところ)、何国(いずくに)においても紛無之者也(まぎれこれなきものなり)、仍而證状如件(よってしょうじょうくだんのごとし)
寛政六寅年二月伊勢海村右衛門政周」
化粧まわしは金襴(きんらん)の鮮やかな緞子(どんす)で、まるで錣山の勇猛さを表しているかのように睨(にら)む唐獅子(からじし)が刺繍(ししゅう)された立派なものです。
中山家では毎年正月場所とお盆の時、床の間に飾り、風を入れて供養してきたそうです。過去帳(かこちょう)によると、天保三年(一八三二)七月二十六日没、六十六歳。戒名(かいみょう)は「長禅誼養善信士」。江戸住まいで終わり、勝山には帰らなかったと伝わります。
この錣山の化粧まわしと相撲證文は、このたび中山家から鋸南町歴史民俗資料館へ寄贈されました。