文化 被爆、終戦から80年

80年前の広島・長崎では、原子爆弾によって、多くの貴い命が一瞬にして奪われました。
区は、これからも核兵器廃絶と世界の恒久平和を願い、積極的に非核平和事業に取り組んでいきます。
戦争の記憶を若い世代に語り継ぎ、平和への思いを受け継いでいきましょう。

■80年前、長崎で被爆された奥田萩子さんにお話を聞きました
▽宮崎から長崎の造船所へ
昭和19年4月に勤労女子挺身隊(※1)として、実家のある宮崎県から長崎県長崎市内の造船所に配属されました。当時の長崎は空襲が少なかった覚えがあります。

▽昭和20年8月9日午前11時2分
当時17歳の私は、お使いで友人と長崎市内の飽の浦にある本社を訪れていました。午前11時2分、寮に戻ろうと階段を下りていた時、真っ白い光と「ドーン!」という轟音に襲われました。本社は爆心地から3km以上離れていたため建物自体は無事でしたが、爆風によって玄関の大きなガラス製のドアは粉々に砕け散っていました。
何が起きたのか理解できないまま、私たちは近くの防空壕で6時間ほど避難した後、寮に戻るため船で長崎港の対岸に渡りました。町は、がれきと化して生き物の気配はありませんでした。
寮に向かって歩いているとき、崩壊した県庁前で生存者を見かけました。髪の毛も顔も衣服も何もかもが真っ黒に焼き焦げ、腕から剥がれた皮膚がただれて垂れ下がり、ふらふらと歩く被爆した女性でした。その姿を見て、私たちは悲鳴を上げてその場から逃げてしまいました。
その後、友人と励ましあいながら、何とか無事に寮までたどり着くことができましたが、もし私1人だったらその凄惨な光景に耐えられなかったと思います。

▽原爆投下後の出来事
寮にいるとまた爆撃されるかもしれないので、夜に近くのお寺に避難をしました。お寺の境内に入ると、暗闇の中で、死臭が漂い、うめき声が聞こえていました。
朝になり辺りが明るくなると、本堂や地面に人がたくさん寝かされていたのだと分かりました。「水をくれ」とか「痛いよ」という声がたくさん聞こえました。でも、その時の私には何もすることができませんでした。
原爆投下後、間もなくして終戦を迎えました。原爆によって破壊された市内にはろくに火葬場もなく、至る所で死体を焼いていました。町中に死体を焼くにおいが立ち込める日々が何日も続きましたが、極限状態だったのか、死体が焼かれている光景を見ても、何とも思わなくなっていました。
その後、列車で故郷の宮崎に帰ることになりましたが、線路が壊れているところは歩かなければならず、3日くらいかけて帰りました。

▽後世に被爆体験を語り継ぐ
あの日から80年たった現在、私は葛飾区原爆被爆者の会〔葛友会〕(※2)の一員として、被爆体験を話し続けています。昭和61年に葛飾区へ引越し、当初は仕事をしていたため活動ができませんでしたが、平成13年から、小・中学校で被爆体験の講話会を行っています。先日の講話会(12面参照)では、終了後に子どもたちが興味を持ってたくさん質問をしてくれました。また、子どもたちと千羽鶴を作るのに、折り鶴を教えたこともあります。
被爆体験の記憶を話せる方も少なくなっており、自分も以前ほど体が思うように動かなくなってきたのが現状ですが、これからも一人でも多くの方に自分が体験したことを伝えていきたいです。

▽世界の平和を願って
今の核兵器は技術も進んで、もし使われるようなことがあれば被害も大きくなると思います。一瞬で何万人が亡くなってしまう核兵器の恐ろしさを知ってもらい、私の被爆体験を聞いた方の中から「戦争をしてはいけない」という輪が世界中に広がってほしいと思います。

▽区民のみなさんへ
区民のみなさんには、42年前に制定された「葛飾区非核平和都市宣言」を知っていただき、平和について今一度考えていただきたいです。

※1 勤労女子挺身隊…戦争の後期に、戦争による労働力不足を補うため未婚の女性で結成された。主に工場などでの労働に従事。
※2 葛飾区原爆被爆者の会…葛飾区に住む被爆者とその家族が、原爆の悲劇を風化させないため、被爆体験を語り継ぐ活動や非核平和祈念のつどいに参列するなど、平和を願うために活動する団体。

12面で非核平和都市宣言や非核平和に関する区の取り組みを紹介しています

担当課:総務課
【電話】03-5654-8136