文化 松永耳庵生誕150年「電力の鬼」と呼ばれた彼の姿に迫る―

明治末期から昭和にかけて、長く日本の電力業界で活躍した松永安左ヱ門(やすざえもん)(耳庵(じあん))(1875~1971年)が、ついのすみかとして選んだのが市内板橋。今も耳庵が利用していた当時の建物が残されています。
今年、生誕150年を迎え、新たに市へ寄贈された資料を展示する記念企画展を開催するに当たり、耳庵の生き生きとした姿や当時のエピソードを紹介します。

◆松永記念館「耳庵生誕150年記念企画展」

日時:12月7日日曜日までの午前9時~午後5時(最終入館:午後4時30分)
場所:松永記念館本館1階展示室

《関連イベント講演会「孫が語る松永安左ヱ門(耳庵)」》
日時:6月22日日曜日午後2時~3時30分
場所:松永記念館本館2階広間
定員:30人(申込先着順)
講師:松永英二郎さん
申し込み:6月21日土曜日までに電話で

◆【表紙から続く】松永耳庵生誕150年

《日本の電力事業を大きく発展させた「電力の鬼」》
松永安左ヱ門(やすざえもん)(耳庵(じあん))は、明治、大正、そして昭和と、長く日本の電力業界をけん引した実業家です。
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下となって、大きな変化を迎えていた日本。電力事業の民営化が急がれる中、安左ヱ門は昭和24年、国の電力事業の再編を検討する電気事業再編成審議会の会長に抜てきされました。そこでは、旧来の国策会社を解体し、全国を9つに分割して民間の電力会社を設立する案を作成していきます。反対意見が大勢を占める中、粘り強く政界やGHQの説得に当たり、実現させました。そして、電気設備の近代化や電源開発を推し進め、熱意と先見の明で日本の電力事業の発展に尽力します。
また、創設した電力会社の経営改善や、さらなる電力供給を目指し、電気料金の7割近い値上げを実施しました。当時、世間から猛反発を受けましたが、屈しない安左ヱ門は「電力の鬼」と呼ばれていきます。
しかし、これによって現在の電力体制の礎を築き、日本の高度成長期を支えたのです。

《茶人「耳庵」の活動拠点》
実業家として活躍する一方、安左ヱ門は「耳庵」と号して、茶の湯を趣味とし、近代における数奇茶の発展に大きな役割を果たしました。その功績から、近代三茶人の一人としても知られています。
耳庵は、小田原の温暖な気候を気に入り、昭和21年、市内板橋に移り住みます。そして、95歳で亡くなるまでのおよそ25年間、小田原を拠点として過ごしました。敷地内にある老木の欅(けやき)から名付けた邸宅「老欅(ろうきょ)荘」には、吉田茂、池田勇人(はやと)、小川栄一など多くの名だたる政財界人が訪れています。
昭和30年には、老欅荘の裏手にあるみかん山の付近に、築200年になる民家の一部を用いた田舎家風茶室「無住(むじゅう)庵」を移築しました。普段は番茶席として利用していた一方、気の置けない友人らと共に酒を酌み交わすなど、楽しいひとときをこの場で過ごしていたようです。
◎松永記念館「老欅荘」

《晩年の姿》
耳庵は、茶の湯に関する書物や自伝などを多く執筆する一方、若い頃から乗馬や相撲に親しみ、50代で登山を始めるなど、体を動かすことも好きでした。70代で小田原と東京を行き来する多忙を極めた生活でも、毎日帰宅途中で車を降り、およそ4キロ歩いて帰宅していました。また、近所にあった山縣有朋(やまがたありとも)の別邸「古稀(こき)庵」まで散歩し、最晩年になっても自宅敷地内にあるみかん山に登り、相模湾の景色を眺めることが好きだったそうです。
そんな耳庵が、晩年に海水浴を楽しんだのが静岡県西伊豆町の堂ヶ島でした。たまたま視察で訪れた際に、荒波に立ち向かうような姿の岩山に心を揺さぶられた耳庵は、土地を即決で購入。後に別荘を構え、毎夏1カ月ほど滞在して海で泳いでいました。茶の湯の師である益田鈍翁(どんおう)から「紫外線を浴びることは健康に良い」と聞いていたため、太陽が照り付ける暑さの中に身を投じようという心意気で「渋紙色に全身染まった」というほどよく日に当たりました。海水浴は自身の健康法として、90歳ごろまで続けました。
この堂ヶ島の別荘で使われていた建具類の一部や、解体時に記録されていた建物の間取りなどの資料が、昨年、市に寄贈されました。別荘は現存しませんが、当時の様子がうかがえる新収蔵資料として、現在、松永記念館で展示中です。
エネルギッシュで自由闊達(かったつ)な性格だった耳庵。彼の生きざまに触れることができるものが、今もなお小田原に残されています。
◎堂ヶ島の海で泳ぐ90歳の耳庵(撮影:杉山吉良 所蔵:一般財団法人日本カメラ財団)

◆インタビュー「優しいおじいちゃん」が偉大な人と知った時

秋葉山量覚(りょうがく)院山主
山本具徳さん

元々は耳庵さんが近所に移り住んだことを機に、私の父と交友関係にありました。40歳ほど年が離れていましたが、父は歯に衣着せぬ物言いをする耳庵さんが好きだったようで、よく我が家で長い時間いろんな話をしていました。
よく世間では「電力の鬼」とか「怖い」といわれていた耳庵さんでしたが、私にとっては、いつも着物を着ている物静かな「優しいおじいちゃん」でした。まだカラーテレビが家庭に普及してなかった昭和30年代、私が好きなアニメが放送される日は必ず耳庵さんから「老欅荘に見においで」と誘ってもらい、耳庵さんの膝の上でカラーテレビを見ていたことを、よく覚えています。
耳庵さんって、ニュースなどを見ている際に時々、自分の意見を幼い私に話してくれたのですが、ある日「空港は羽田だけではなく木更津などにも造るべきだ。そして、その2カ所をつなぐ東京湾を横断する橋かトンネルを造るべきなんだ」と言っていました。当時の私は何となく聞いているだけでしたが、実際に、場所は違えども同じ千葉県内に成田国際空港が開港され、東京湾を横断して川崎市と木更津市を結ぶ東京湾横断道路(東京湾アクアライン)が開通され「あの時、耳庵さんが言ってたのは、こういうことだったのか」と、驚いたのと同時に、既にこのビジョンを持っていた耳庵さんの実業家としての先を見通す目の鋭さを実感しました。
あれから平成、令和と時代が変わっていますが、時折「耳庵さんなら現代に対して何て言うかな」って思ったりもします。

【WEB ID】P39507
問い合わせ:生涯学習課
【電話】0465-23-1377