文化 【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

■高岡の政治経済を牽引した実業家・政治家/6代木津太郎平(たろべい)(1875~1950)
6代太郎平は明治から戦前の実業家・政治家です。幼名は清太郎。木津家の先祖は、上川原町で木津屋と称し荒物屋、のち魚屋でした。4代太郎平(夫人は高峰譲吉伯母)は廻船問屋となり富を築きます。6代は、旧制富山中学を卒業し、1895年に志願し陸軍第7連隊に入隊。1902年、高岡米穀外四品(ほかよしな)取引所理事長就任。翌年父(5代)が没すると6代太郎平を襲名し、高岡電灯株式会社(現北陸電力(株))取締役、高岡新報社(現北日本新聞社)の社長に就任。その後も1906年、北陸人造肥料会社取締役。翌年、高岡商業会議所(のち商工会議所)会頭(計5期10年在任)、及び高岡米穀取引所理事長に就任。のち1920年、北陸信託会社社長、1923年、高岡信用組合理事・高岡銀行頭取に就任するなど高岡の経済界を牽引しました。太郎平は政界でも活躍し、1912年から2期、衆議院議員を務めました。
昭和に入り、高岡市会は長く泥沼の権力闘争を行って収拾せず、1938年ついに内務省の命令で解散させられました。太郎平は長く混乱した市政をまとめる唯一の人物として推され、第13代市長に就任しました(~1945年)。伏木町ほか1町5村を合併、交通路整備、伏木港拡築や戦時中の疎開など困難な時期の市政を指導しました。戦後の1948年、北陸軽金属(株)取締役となりましたが、1950年脳溢血で死去しました。(仁ヶ竹主幹)

問合先:博物館
【電話】20-1572