文化 【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

■高岡時鐘を制作した町奉行 寺島蔵人(くらんど)(1777~1837)
寺島家の祖先は現富山市寺島辺りの土豪といわれます。室町時代に越中守護代・神保氏の家臣となったと考えられ、のち前田家に仕えました。
蔵人の幼名は乙三郎、のち此母(このも)、諱(いみな)は兢(つよし/きょう)、字は季業(きぎょう)、号は静斎(せいさい)・応養(おうよう)などがあります。蔵人は加賀藩士・原元成の三男として生まれ、幼時より秀才で思いやりのある正義感の強い人物でした。1800年、藩校の学校読師(どくし)に抜擢。翌年、寺島家(450石)を相続し、馬廻組頭御用番支配(うままわりくみがしらごようばんしはい)となります。1803年閏(うるう)正月、高岡町奉行となると早速、民に時を報(しら)せる時鐘(じしょう)の制作に着手します。この件は、高岡町民の長年の願いでもあり、祖父恵叙(まさつぐ)が高岡町奉行であった時代に発案し、1782年、藩に許可を得るも、翌年転任となったため、断念したものです。蔵人は藩に許可を得ると金屋鋳物師の鋳造願いを許可し、翌1804年8月に大鐘が完成しました。しかし、程なく鐘に亀裂が生じたので、坂下町の綿商・鍋屋仁左衛門(金屋町出身)が再鋳に奔走、町民の寄付も集まり1806年7月16日に無事に完成しました。その後、蔵人は藩の農政や財政の実務を担いました。民を思い藩政を批判し、数度処分を受けましたが、徐々に同調者を集めました。重臣は蔵人を「前門(ぜんもん)の虎」と恐れ、遂に1836年能登島に流刑(るけい)となりました。蔵人は翌年7月、島で死去しました。また蔵人は、絵画にも秀で、画家・浦上玉堂(うらがみぎょくどう)をはじめとした文人墨客(ぶんじんぼっかく)との親交も知られています。(仁ヶ竹主幹)

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