- 発行日 :
- 自治体名 : 福井県坂井市
- 広報紙名 : 広報さかい 2025年8月号
■「午(うま)のとし紀行」
江戸時代には、幕府により五街道(東海道(とうかいどう)、中山道(なかせんどう)、甲州道中(こうしゅうどうちゅう)、日光道中(にっこうどうちゅう)、奥州道中(おうしゅうどうちゅう))などが整備され、伊勢参りなど、旅に出かける人々が増えました。「午のとし紀行」は三国湊の豪商・内田惣右衛門(そうえもん)が書いた江戸時代の和歌の紀行文です。午年の文政5年(1822)、惣右衛門ら9名が三国を出発、北上し、出羽(でわ)国酒田(山形県酒田市)まで行き、東の松島周辺(宮城県松島町)から南下、江戸、関東地方の他、富士山、東海地方をまわって、湯尾(ゆのお)(福井県南越前町)、鯖江(同鯖江市)から三国に戻るまでの出来事や詠(よ)んだ和歌が書かれています。
惣右衛門は内田家の当主で、内田家の全盛期の人物です。旅の目的は富士詣(ふじもうで)で、日頃から惣右衛門は富士詣を望んでいたようです。惣右衛門は和歌をたしなみ、歌人名は「庸(もちう)」と名乗りました。また俳諧(はいかい)への関心もあり、和歌によく詠まれた名所や旧跡(きゅうせき)である「歌枕(うたまくら)」の地22か所を訪問したり、遠方から眺めたりしていました。
時期は旧暦の3月23日から6月30日までの約3カ月で、現在使っている新暦に置き換えると5月中旬から8月中旬に旅したことになります。旅の移動手段は徒歩の他、舟や馬を利用していました。道中では、墨と筆を格納できる「矢立(やたて)」と呼ばれる筆記用具を持ち歩き、自ら旅の景色や馬などの絵を添えて書き留めています。
越中(えっちゅう)(富山県)では、石動(いするぎ)から伏木(ふしき)まで小矢部川(おやべがわ)を舟で移動する際、水の勢いが強かったのですぐに到着したり、出羽の鶴岡では梵字川(ぼんじがわ)を舟で下る途中、修験道(しゅげんどう)で著名な鳥海山(ちょうかいさん)、月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)を見たりしました。伊豆(いず)(静岡県)の須山(すやま)から富士山では麓から2里ほど(約8キロメートル)を馬に乗り、後は徒歩で移動しました。
歌人にとって旅こそは、名所や旧跡をつなぎ、歌の題材を生み出すツールの一つでもありました。
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